「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-

※ 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-
 (令和二年八月二十日(木)、第16回 古代史講座 第2部、主催 田川広域観光協会)より

■ 後漢の光武帝より金印をもらった倭奴国は、「いぬこく」と読む

● 天照神社の社伝等に前14年、饒速日が笠置山に降臨とある

前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨
「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図
「立岩式石包丁と今山産の石斧の分布図」
「写真」

笠置山

「写真」

天照宮(磯光)

 葦原瑞穗國の豐は、豊前・豊後つまり豊国である。また、豐葦原瑞穗國は、豐葦原中国(なかつくに)である。

 「発掘『倭人伝』」という本の中にある地図であるが、笠木山から出る石(輝緑凝灰岩)で作られた立岩式石包丁圏では、水稲(すいとう)つまり稲作が盛んであったことが解る。

 同じように筑紫側では、今山の石斧(いしおの、せきふ)が作られていて、その石斧が出土する分布とも豊国は重なる。

 神武天皇は、大物主以来の倭国(邪馬台国)を再び建てる。その間に倭奴国の時代があり、その倭奴国の中心が笠木山の辺りだと考えると、鉄鏡が出土した日田市ダンワラ古墳のこの範囲に入る。

 

● 『古事記』の「天の石屋戸」場面に鉄鏡を作ったとある

天満倭国=倭奴國の成立
 素戔嗚尊を倒したのが天照大神こと饒速日尊
であろう。宮若市宮田町磯光の天照宮に祭られ
る男神である。
 『古事記』天の岩屋戸伝承にこうある。
 かれここに天照大御神見畏こみて、天の石
屋戸
を開きてさし隠りましき。
 ここに高天原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇
し。これに因りて、常夜往く。
 ここに万の神の声は、さ蝿なす満ち、万の
妖悉に発りき。・・・
 天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求
ぎて、伊斯許理度売の命に科せて、鏡を作ら
しめ
、 ・・・天の香山の真男鹿の肩を・・・
 (手力男の神)、速須佐の男の命に千座の
置戸
を負せ、また鬚と手足の爪とを切り、祓
へしめて、神逐ひ逐ひき。
 「千座の置戸」とは何枚もの板状の石のこと
であり、素戔嗚尊は重い石を身体の上に置かれ
て圧殺されている。彼の一族は再び現在の出雲
に流されたようだ。

 私が、日田市ダンワラ古墳から出土した鉄鏡について思っていることは、「朱色のうるしで彩色した珠 がはめ込まれている」とある。

 『古事記』にある天照大御神が素戔嗚尊を懲らしめたという場面(天の石屋戸の場面)に「天の金山の鐵を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売の命に科せて、鏡を作らしめ」とある。天の金山の鐵(まがね)は、鉄であり、その鉄で鏡が作られている。

 鉄鏡が、天照大御神、私がいう饒速日尊の時代、つまり紀元前の時代に鉄その物を作ったかは判りませんが、鉄を材料にして鉄の鏡を作ったと書かれている。

 天の金山であるが、実際に田川郡香春町に宮原金山遺跡と呼ばれた国道322号のバイパスを建設している時に平安時代の溶鉱炉跡が出てきた。
 製鉄の跡である。たしか九州大学が、4基あった溶鉱炉のうちの1基を樹脂で固めて大学へ持って帰り、残りの3基はそのままで埋め戻されてしまった経緯がある。
 いまだに香春町に金山という字名がある。その隣に天の香山もある。

 

● 57年に後漢の光武帝から金印を貰った倭奴国王は、天香語山命ではないか

天満倭国=倭奴國の成立
 これらに関連するのが、『後漢書』倭国伝の
次の一節である。
「建武中元二(五七)年、倭奴国奉貢朝賀
 す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界
 を極むるや、光武賜うに印綬を以てす。
 安帝の永初元(一〇七)
 年、倭国王帥升等、生
 口百六十人を献じ請見
 を願う。」
 後漢の光武帝から下賜さ
れたのが「漢委奴國王」の
金印である。
 倭奴国王は物部氏をよく
統治し得たことから大物主
(鷹羽の神)を崇敬した

ではないかと思われる。
 倭奴國は、万葉集の中では「天満倭」と
呼ばれ、倭国でもある。

<金印>

<封泥>

金印「漢委奴国王」
封泥「漢委奴国王」

 57年には、倭奴国王は後漢の光武帝から金印を貰って来ているが、107年の倭国王帥升は、安帝から何を貰ってきたかが書かれていない。

 

五七年の倭奴国王
饒速日命-天香語山命
「香春岳」

天香山

 57年に遣いを出した倭奴国王は、饒速日命(天照大神)の跡を継いだ王であり、『先代旧事本紀』の天孫本紀によれば、天香語山命という2代目の王である。

 紀元前14年に饒速日命が、倭奴国を建てたとすれば、57年に遣いを出した倭奴国王は、どうも天香語山命ではなかろうか。
 私は何度も何度も天香山は、香春町にある香春岳の三ノ岳だと言っている。天香山から金、銅が採れたと『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』に書かれいるように三ノ岳からは、金も銅も採れる。

 天香語山命という名であるからには、天香山の麓の何処かに宮殿を建てて住まわれていた。この王が、後漢の光武帝に出して貰ってきた金印だとすると、博多の志賀島から出たとされる金印は、田川郡の香春岳の麓のお宮殿にあったのではないかというトンデモナイ事を言っている。
 ただ、文献を調べていくとどうしてもそのようになっていくのである。

 もう一度、107年の安帝に遣いを出した倭国王帥升について考えてみる。

 

● 日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡は、107年に倭国王帥升が貰ってきたのか?

天満倭国=倭奴國の成立
 これらに関連するのが、『後漢書』倭国伝の
次の一節である。
「建武中元二(五七)年、倭奴国奉貢朝賀
 す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界
 を極むるや、光武賜うに印綬を以てす。
 安帝の永初元(一〇七)
 年、倭国王帥升等、生
 口百六十人を献じ請見
 を願う。
 後漢の光武帝から下賜さ
れたのが「漢委奴國王」の
金印である。
 倭奴国王は物部氏をよく
統治し得たことから大物主
(鷹羽の神)を崇敬した

ではないかと思われる。
 倭奴國は、万葉集の中では「天満倭」と
呼ばれ、倭国でもある。

<金印>

<封泥>

金印「漢委奴国王」
封泥「漢委奴国王」

 107年遣いを出した倭国王帥升は、何も貰ってこなかったのか? と考えていたら、日田市ダンワラ古墳から出土した鉄鏡は、ひょっとしたら倭国王帥升が貰ってきた? 後漢の時代である。
 鉄鏡は、後漢の鏡じゃないかなぁと思うが、何も証拠はありません。文献に書かれていないので、証拠はない。ただ現実に日本の土地から魏の曹操の墓からでた鉄鏡と同じ鉄鏡が日田から出土した事になっている。
 私は、日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡は、倭国王帥升が安帝から貰ってきた最有力の候補じゃないかと考えている。

 もし、この鉄鏡が、魏の曹操の後の時代に中国側にあったとすれば、卑弥呼の後の臺与が貰ってきたという可能性もある。
 古くは、倭国王帥升という可能性がある。倭奴国の王が貰ってきたのではないだろうか。私の想像である。

 

● 『求菩提山縁起』からも倭奴国の「倭奴」の読みは、「いぬ」である

倭奴国の読み方 → いぬこく
求菩提山縁起
求菩提山縁起

 先ほどから倭奴国を「いぬこく」、「いぬこく」と読んでいるが、豊前の修験道の山である求菩提山の縁起に次の文句がある。
 「神武天皇鋒端を揺し、中国を平らげ、威奴の邪神を撥はしめ、九州を政(おさ)めんとす。」とあり、威力の威に奴である。

 したがって、神武天皇は、倭奴(いぬ)国を倒して邪馬臺(やまと)国(=倭国)を建てた。私は、神武天皇は奈良県(大和)には行っていないと言っている。
 神武天皇は、九州止まりであり、ここで、邪馬台国(=倭国)を建てられたと言い続けている。

 さらに求菩提山縁起には、継体天皇の時に威奴岳(いぬがたけ)とある。「いぬがたけ」は、英彦山の山並に犬ヶ岳と書き直されて存在する。

 この「威奴岳」は、絶対に「いぬがたけ」である。「威奴」は、「いぬ」である。だから、「倭奴国」も「いぬ国」である。
 『後漢書』も倭奴国とあり、『旧唐書』の倭国伝も、倭国は古の倭奴国なりと書かれているから、中国語の語法から言っても「倭奴国」は、全部「いぬ国」である。
 「倭奴」を「わのな」とは、決して読まない。これは、我国にも残された『万葉集』『古事記』『日本書紀』等の万葉仮名という上代の漢字だけを借りた仮名の使い方である。
 万葉仮名では、「奴」を「な」とは読んでしない。「ぬ」か「の」である。