「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-

※ 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-
 (令和二年八月二十日(木)、第16回 古代史講座 第2部、主催 田川広域観光協会)より

■ 呉の兵士がやって来た亶州が、東鯷国である

● 『三国志呉書』、『後漢書』「東夷伝」にある亶州は、東鯷人の国

神功の鏡の起こり
二三〇年「将軍衛温・諸葛直を遣はし、
  甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州
  (推定狗奴国)および亶州(推定
  東鯷国)を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
『三国志 呉書』(「孫権伝」黄竜二年)「二年春正月、魏作合肥新城。詔、立都講祭酒、以教學諸子。遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、浮海、求夷洲及亶洲。亶洲、在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥、止此洲、不還。世相承有數萬家、其上人民時有至會稽貨布。會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠、卒不可得至。但得夷洲數千人還。」

 卑弥呼の時代の120年後に神功皇后(私は、神功天皇と言いたい)は、出てくる。その神功皇后の鏡の起こりであるが、ハッキリ言う。
 この鏡は、三角縁神獣鏡の事である。

 三国時代に魏と呉は、激烈な戦いを繰り広げた。その呉は、魏より少し小さい国だったので、兵士が足りない。
 それで、孫権が兵士を連れてくるように命令を出す。それが、『三国志呉書』「孫権伝」黄竜二年(西暦230年)の記事である。

 遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、浮海、求夷洲及亶洲。亶洲、在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥・・・

 と書かれている。「亶洲は、海中に有り」とあり、その後に伝え言うと続き、皆さんよく聞いた内容である。秦の始皇帝の時代に方士徐福を派遣して、童男童女数千人を連れて海に入り、蓬萊神山及仙藥を求めたが、蓬萊に留まり帰らなかった。
 その童男童女数千人の人たちの子孫が数萬家ある。その人民が、呉の都、會稽に来る者がいて交易をしている。
 會稽東縣の人が海に行き、亦風に遭って流移して亶洲に着いた者がいるが、余りのも遠くてその所在はわからない。
 但し、夷洲の数千人を連れて帰った。

 衞溫、諸葛直は、兵士を1万人と派遣されたが、徐福が連れて行った童男童女数千人の子孫たち、数千人しか連れて帰れなかったから、獄に下されたと書かれている。

 『魏志倭人伝』を研究する学者たちは、何故か知らないが、同じ『三国志呉書』に書いてる魏のライバルである呉の孫権の話を取り上げてくれない。
 徐福が行った場所は、ひょっとして英彦山ではないかと考えている。

 

後漢書東夷伝倭国
會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 
又有夷洲及澶洲
 会稽海外に、東鯷人あり、分かれて
二十余国を為す。また、夷州および澶
州あり。
 伝え言う、「秦の始皇、方士徐福を
遣わし、童男女数千人を将いて海に入
り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。
徐福、誅を畏れて還らず。遂にこの州
に止まる」と。
 世世相承け、数万家あり。人民時に
会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、
海に入りて行き風に遭いて流移し澶州
に至る者あり。所在絶遠にして往来す
べからず。

 范曄の『後漢書』「東夷伝」にも「會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 又有夷洲及澶洲 」とある。
 『三国志呉書』「孫権伝」黄竜二年の記事と同じような文句である。この『後漢書』には、「澶洲」と「さんずい(氵)」が付いているが、東鯷人の記事である。

 『後漢書』「東夷伝」と『三国志呉書』「孫権伝」黄竜二年の記事は、ほとんど同じ漢字が並んでいる。だから、私は、亶州が東鯷人の国で、亶((たん)から単純に丹波とか丹後と考えただけである。

 

後漢書東夷伝倭国
 会稽郡の海外に東鯷人がいる。分
かれて二十余国を作っている。また、
夷洲と澶洲がある。
 こう言い伝えられている。
 秦の始皇帝は方士の徐福を派遣し、
子供の男女数千人を率いて海に入り、
蓬莱神仙を求めさせたが出来なかっ
た。
 徐福は罪に問われるのをおそれ、
敢えて帰らず、ついにこの島に止ま
った。
 代々受け継がれて数万戸がある。
その人民が時おり会稽の市にやって
くる。
 会稽東冶県の人で、海に入り、風
に流されて澶洲に着いた者がいるが、
所在地はあまりにも遠く、往来する
ことはできない。

 

● 亶州(推定東鯷国)は、近畿・丹後地方を中心とした所

丹後半島の古墳群
丹後半島の地図「古墳群」

 亶州を東鯷人の国と考えた時に丹後半島にこれだけの古墳がある。ほとんどが、前方後円墳である。

 

● 都怒我阿羅斯等は東鯷国へ、田道間守は常世(とよ)国(=豊国)へ

 東鯷国から倭国への使者の話も垂仁紀
末尾にある。
 卑弥呼が、共立された時から外交政策
を考えていたなら、彼女は遠交近攻策を
採っていた
のではないか。
 その時、南の狗奴国と緊張関係にあっ
た卑弥呼が、後漢書に書かれた「東鯷(とうてい)
(近畿にあった国)
」と友好関係を結ぶ
ために、密使として阿羅斯等を派遣した
のではないかと考えられる。
 都怒我阿羅斯等卑弥呼の側近だった
可能性もある。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 

 八竿八縵の非時の香菓が、どうや
豊前の串柿・吊し柿(干し柿)
ようである。田道間守は但馬国と豊
前国とを往来したようである。
 天日槍(あめのひほこ)但馬国(兵庫県)に定住
した。

 5代の孫が田道間守(たじまもり)である。使者
となり、10年を経て常世(とよ)=豊
)から「八竿八縵(やほこやかげ)非時(ときじく)(かぐの)(このみ)
を携えて帰国したが、聖帝は死んで
いた。陵の前で「おらび哭き」、自
死した。
 阿羅斯等と同工異曲の伝説がある。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 「八竿八縵の非時の香菓」の「菓(かぐのこのみ)」は、天山(あめのかぐやま)の「かぐ」である。

 「おらび哭き」と『日本書紀』の原文にある。この「おらび哭き」は、九州弁である。『日本書紀』には、ちゃんと九州弁がある。

 

お菓子の神様

 田道間守公

(みかん)を持ち帰った
ことになってい
る。
四天王寺ワッソの多遅摩毛理
写真「四天王寺ワッソの多遅摩毛理」
絵「田道間守公」

 通説では、田道間守公はお菓子の神様になっている。天皇のお墓であるにも関わらず、絵のお墓が小さい。古墳であるハズである。

 

香春町採銅所で
  古くから作られている吊し柿
 (1996年ごろ。森下重和氏提供)
写真「香春町採銅所の吊るし柿」

 写真は、1万個もの柿を手で皮をむいた吊し柿である。これが、「八竿八縵の非時の香菓」と思われる豊前の串柿・吊し柿(干し柿)である。

 

● 亶州(推定東鯷国)の人たちは、呉の会稽へ連れて行かれた

二三八「司馬懿、淵を破り、その首
  を都に送る。海東平ぐ。」
 
   (三国志魏書景初二年)
二三七「淵、遂に立ちて燕王を自称
  し、魏の北方を侵す。」
 
   (三国志魏書景初元年)
二三二「三月、呉使を遼東に遣はす。
  七月、(公孫)淵、使者二人を
  遣はし、呉王孫権に意を通じ、
  貂馬を献ず。権、悦び淵に叙爵
  す。」
 (三国志呉書嘉禾元年)
二三〇「将軍衛温・諸葛直を遣はし、
  甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州
  (推定狗奴国)および亶州(推定
  東鯷国)を求む」

   (三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
 ※ 浦島太郎の拉致
卑弥呼の時代の拉致事件

 『三国志呉書』「孫権伝」黄竜二年(西暦230年)記事に関係するのが、浦島太郎(浦島子)ではないだろうか。
 呉の会稽へ連れて行かれら数千人の一人が、浦島子だった。この人(の子孫)が、およそ300年経った『雄略紀』の時代に与謝郡(丹波国)に帰って来た事実が、書かれている。

 『三国志魏書』景初二年(西暦238年)「司馬懿(仲達)、(公孫)淵を破り、その首を都に送る。海東平ぐ。」とあるその直後に、邪馬臺の女王卑弥呼が帯方郡に遣いを出す。
 遣いを出した帯方郡は、司馬懿が長官の場所である。グッドタイミングである。狗奴国と東鯷国に挟まれて滅亡するという恐れが無くなる。
 呉と敵対している魏も公孫氏が滅んだ後も朝鮮半島の南、倭人の国々(狗奴国や東鯷国)が呉に加担したら魏もたまったものでない。お互いに孤立しかけた魏と倭国が国交を結んだというのは、リーズナブルだと考えている。

 

『三国志 呉書』(周瑜傳)「周瑜、字公瑾、廬江舒人也。」(割注)「謝承後漢書曰。景字仲嚮、」
陳寿(二三三~二九七)
『三国志』斐松之(三七二~四五一)
『三国志 呉書』(吳主權謝夫人傳)「吳主權謝夫人、會稽山陰人也。父煚、漢尚書郎、徐令。 ・・・ 弟承拜五官郎中、稍遷長沙東部都尉、武陵太守、撰後漢書百餘卷。」
陳寿の見ていた後漢書
浦島太郎を見た呉の人

 『三国志』を編纂した陳寿が、『呉書』の中で「吳主權謝夫人傳」と伝記を書いている。その中に謝夫人は、山陰會稽の出身だと書いている。
 東鯷国の人々は、その會稽まで出かけて行って交易をしていた。浦島子(浦島太郎)たちが、連れて行かれた會稽である。

 その謝夫人の弟の承(謝承)が、「後漢書百餘卷を撰す」と書かれている。『魏志倭人伝』を書いた陳寿が見ていた『後漢書』がこの後漢書である。
 范曄後漢書ではなく、謝承後漢書である。だから、陳寿は、謝承が書いたと思われる『後漢書』「東夷伝」を見ながら『魏志倭人伝』を書ているハズである。
 中国でも日本でも学者たちが、この事を間違っている。『後漢書』は、范曄後漢書が最初の後漢書だというのである。

 奇跡中の奇跡が残っている。太宰府天満宮に唐の時代に書かれた『翰苑』という書物が残っていたのである。『翰苑』に書かれている「東夷伝」の割中の所に謝承後漢書と思われる名前の書かれていない後漢書が書かれている。
 『翰苑』は、世界に1冊、太宰府天満宮にしか残っていない。奇跡である。

 『三国志・呉書』「周瑜魯肅呂蒙傳第九」の斐松之注に「謝承後漢書曰。・・・」とある。斐松之は、西暦372~451年の人物であり、卑弥呼の時代よりずーっと後の時代である。
 斐松之が、陳寿が書いた『三国志・呉書』の本文に謝承後漢書を引いて、注を付けている。陳寿の三国志の前に謝承後漢書があったことは違いない。

 

 竜宮から帰
った浦島太郎
(浦嶋子)が、
ここで玉くし
げ(玉手箱)
を開けて顔じ
ゅうしわだら
けになり、悲
しみのあまり
しわをちぎっ
て投げつける
と、樹皮がし
わで凹凸にな
ったと伝えら
れています。
 銚子山古墳の前方部付近にある
榎の大木。

  銚子山古墳
都怒我阿羅斯等の墓?

「上空からの銚子山古墳」
「銚子山古墳の榎の大木」

 雄略天皇の時代に帰ってきたと思われる浦島太郎(浦島子の子孫)の伝説が、丹後半島の銚子山古墳のそばの榎にある。
 私は、この銚子山古墳が大きいので、天之日矛(=都怒我阿羅斯等)の陵ではないかと言っている。