「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-

※ 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-
 (令和二年八月二十日(木)、第16回 古代史講座 第2部、主催 田川広域観光協会)より

■ 魏からもらった卑弥呼の銅鏡100枚は、後漢式鏡である

● 倭国大乱の後に共立された卑弥呼は、神明倭迹迹 日百襲姫命か

邪馬臺国のその後
 神武の薨去後、倭国大乱(欠史八代)が起き、
二〇〇年に卑弥呼共立される。
一七四年 祟神天皇即位。
一七八年「国内に疫病が多く、民の大半が死亡
 する。」
一七九年「人民が流浪し、
 ある者は反乱した。
  天皇は天照大神
 大国魂(=大物主神)

 二神を、宮殿内に共に
 祭り
、神祇に罪を請う
 た。」
(大嘗祭の起源?)
一八〇年春「時に、大物
 主神が神明倭迹迹日百
 襲姫命に憑いて、我を
 祭らば国は治まるであろうと告げた。
  神の教えのとおりに祭ったが霊験はなか
 った。」
「大嘗祭」

 179年の「天皇は天照大神・倭大国魂(=大物主神)、二神を、宮殿内に共に祭り」とあるのが、大嘗祭の起源?ではないだろうか。

 通説の学者でも『日本書紀』の中で神明倭迹迹日百襲姫命が、唯一、卑弥呼に該当する人物だと思われている。

 神明倭迹迹日百襲姫命は、『古事記』の中では、大物主の妻だと書かれている。

 

邪馬臺国のその後
一八〇年秋「天下に布告し、大田田根子
 求めると、茅渟県の陶邑宗像市須恵
 に彼女を捜し当て、十一月に大物主神
 祭らせた。
  すると、疫病が初めて終息し、国内が
 次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑
 わった
。」
  この神酒は わが神酒ならず (やまと)成す
  大物主
の 醸みし神酒 幾久 幾久
二〇〇年(一九六~二二〇 建安年間)
 卑弥呼共立か。

   (魏志韓伝・倭人伝、日本書紀神功皇后紀)
二三〇年「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲
 士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定
 狗奴国)および亶州(推定東鯷国)を
 求む」

     (三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)

 神明倭迹迹日百襲姫命(=卑弥呼)は、大物主神の祭り方を知らなかったのであろうか?180年秋に大田田根子(たぶん女性?)を求め宗像市須恵に探し当てた。

 11月に、大物主神を祭ると疫病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑わったとある。
 そこに次の倭歌がある。

 この神酒は わが神酒ならず (やまと)成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久

 正しく人民の災いを祓って、人民に幸せをもたらす神として、ここで再び大物主神が祭られている。大物主神を祭ることにより、人々の不幸、疫病も退散してしまったのである。

 卑弥呼が共立された後である。『三国志呉書』「孫権伝」黄竜二年というのは、西暦230年に「亶州」が出てくる。
 これが、推定東鯷国で近畿地方にあった国である。

 

● 卑弥呼は、呉と敵対している魏に遣いを出す

邪馬臺国のその後
二三三年 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
  (新羅本紀一七三)
二三八年 景初二年六月、邪馬臺國の女王(にして
 神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡に大夫難
 升米等を遣はす。
二四〇年 魏使邪馬臺国に至る
 正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔
 書印綬
二四七年 其の(正始)八年、太守、王頎官に
 到る。倭女王卑弥呼狗奴国王卑弥弓呼
 より和せず。、載烏越等を遣わし、郡に
 詣り、相攻撃する状を説く。
 塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、
 黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りて
 之を告諭す。
 (魏志)
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」

 西暦220年以後の記事あり、三国時代に入っている。『新羅本紀』173年の中に「倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。」という記事が出てくる。
 しかし、この年に卑弥呼は共立されていた可能性が無いので、朝鮮側でも干支60年誤って書かれたのではと推測して60年足して西暦233年に入れた。

 前述した西暦230年の記事に、魏の敵国である呉の兵士がやって来た夷州が、推定狗奴国であり、亶州が、推定東鯷国とした時に倭国(=邪馬臺国)は、南にある狗奴国と東にある東鯷国に挟まれて滅亡するしかない状況にある。

 だから、『新羅本紀』に出てくる「倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す」とあるように卑弥呼が新羅に遣いをだしたのは、出鱈目、架空の事ではないだろうと思われる。
 朝鮮半島の情勢を探っているのは、それは、その向こうの大陸、魏の国を調査していたと思われる。

 朝鮮半島を支配していた後漢の臣下であった公孫氏だったが、公孫淵が、魏に謀反を起こしていた。そうした西暦238年に蜀の諸葛亮(孔明)のライバルであった司馬懿(仲達)が、非常に少ない兵で公孫淵の軍隊を滅ぼした。

 公孫氏が滅ぼされた直後に朝鮮半島に事情、その奥にある魏の国を伺っていたと思われる卑弥呼がいきなり「邪馬臺國の女王卑弥呼、魏の帯方郡に大夫難升米等を遣はす。」となる。

 この西暦238年の遣使の直後に魏の明帝(曹叡)が病気で崩御した為に喪が明けた240年に魏使が、邪馬臺国に来た。
 『魏志倭人伝』の原文には、「正始元年、・・・詣國」と書かれている。だから、『魏志倭人伝』の中で、「邪馬臺国」と「倭国」は同じである。
 皆さんご存知の通り「倭」の字は、「やまと」と訓読する。したがって訓読は、「邪馬臺国(やまとのくに)」、「倭国(やまとのくに)」である。
 漢字で書いた時に「邪馬臺国」は、「邪馬臺」は仮名表記(読みの音)の漢字であり、「倭国」の「倭」は、意味のある漢字である。

 正始八年(西暦247年)の「・・・詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りて之を告諭す」とある記事の後に「卑弥呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人・・・」と続く。
 この記事には、「卑弥呼以死」とあり、死の理由が書かれていない。何か不都合があったのであろう。だから、私たちは、邪馬臺国は狗奴国(菊池・山鹿の国)に負けたのではないかと前回の講演でも話をした。

 

● 倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼であれば田川に箸墓がある

邪馬臺国のその後
 倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となった。神
は昼に現れないで夜だけ来た。倭迹迹日姫は翌朝
に神の麗しい姿を見たいと言った。大神は翌朝姫
の櫛箱に入って居よう。私の姿に驚いてはならな
いと答えた。
 翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がいた。姫は
驚き叫んだ。大神はたちまちに人の姿となって妻
に言った。「お前は私に恥をかかせた。私はお前
に恥をかかせてやる。」と。
 神は空に上り三輪山(香春岳)に帰った。姫は
仰ぎ見て後悔し、ドスンと座った。すると箸に陰
部をついて死んだ
。そ
こで大市に葬った。
 時の人はその墓を名
付けて、箸墓といった。
 邪馬臺国の女王卑弥呼は
大物主をつまり鷹羽の神を
祭った巫女王だった。狗奴
国王卑弥弓呼に敗れたのだ
ろうか、卑弥呼は責任を問
われ自決したようだ。
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」

 『崇神紀』に倭迹迹日百襲姫命が、大物主神の妻となったとある。その倭迹迹日百襲姫命が死んだ時に大市に葬り、箸墓と名付けたとある。
 大物主の妻となったとあるが、巫女(みこ、ふじょ)の事であろう。だから、倭迹迹日百襲姫命もまた、卑弥呼も巫女だと思われる。
 その人物の墓を箸墓という。

 通説では、近畿説(奈良県説)を採って、箸墓古墳の事を「大市墓」としているが、3年ほど前に私たちは、赤村内田にある全長が450mになろうかという前方後円墳型地形が、箸墓だといった。
 この前方部にあたる部分が、真北を向いている方向には、香春岳がある。三輪山であり、大物主が祭ってあったハズの山がある。
 前方部のずーっと南には、鷹巣山があり大物主を祭る高住神社(鷹巣神社)がある。というようにこれほど『日本書紀』『古事記』の記述とあう箸墓はない。
 奈良県の箸墓古墳は、三輪山との位置関係がおかしい。

 

● 卑弥呼が魏からもらった銅鏡100枚は、内行花文鏡

「卑弥呼受領の可能性がある中国鏡の出土分布」
『魏志倭人伝』「白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利」
「内行花文鏡」

©福智町

卑弥呼の鏡=内行花文鏡

 卑弥呼の鏡について、少し結論を出してみましょう。

 私は、卑弥呼がもらった銅鏡100枚は、内行花文鏡であると思っている。後漢が滅びる西暦220年から魏が始まる。それをつないだのが、魏の曹操である。その曹操は皇帝にはならなかったが、子である曹丕が禅譲の形で皇帝になり後漢が滅んだ。
 卑弥呼は、後漢から魏になった時代の人物である。魏の曹丕が皇帝になったので、蜀の劉備も皇帝になった。呉の孫権も皇帝になった。

 この三国時代に魏と呉が、北と南でずーっと戦争をした。したがって、魏の鏡は、後漢式鏡である。魏は、後漢から禅譲された国であるから、魏で作られる鏡というのは、後漢の宮殿・工房で作られていた鏡と全く同じ鏡になる。

 『魏志倭人伝』に書かれている銅鏡100枚は、魏鏡という名前でもいいが、同時にその鏡は後漢式鏡である。

 後漢式鏡、特に内行花文鏡について、「宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼~宗像神信仰の研究(4)-」(矢田浩)より  by青松光晴 の図16 卑弥呼が受領した可能性のある中国鏡の弥生Ⅳ~Ⅴ期と庄内期における出土分布に挙げているのが、福岡県を中心とした拡大地図である。
 鉄鏡の出土地である日田市ダンワラ古墳も載っている。□印の内行花文鏡の分布は、遠賀川流域である。

 写真の代表的なこの鏡は、田川郡福智町から出土した内行花文鏡である。福智町から内行花文鏡は、2面出土している。田川から出土した内行花文鏡は、数面ある。

 全国の内行花文鏡、後漢鏡を集めても卑弥呼が貰ったとされる100枚を越えない。しかし、通説では、三角縁神獣鏡を卑弥呼が貰ってきた鏡だという説が横行しているが、三角縁神獣鏡は、全国既に500枚以上出土している。
 『魏志倭人伝』に書かれた銅鏡100枚という数と全然合わない。

 魏の王朝は、そのまま後漢の王朝と同じであると勘案すれば、内行花文鏡が、卑弥呼が貰った鏡ではないかというのが、ひとつの結びである。