「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 卑弥呼の鏡と神功の鏡 -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-
(令和二年八月二十日(木)、第16回 古代史講座 第2部、主催 田川広域観光協会)より
■ 神武は、倭奴國を倒して邪馬臺国を建てた
● 神武天皇の第二次東征
神武天皇は、西暦118年に第二次東征を日向より開始する。日向方面より出てくるが景行天皇も前の時代である。
『求菩提山縁起』にある吉野の国樔であるが、現在、大分県に玖珠という所がある。
『日本書紀』に「皇師中洲に趣かんと欲す」と書かれている。神武天皇は、豊葦原中洲に向かって進軍したのである。
写真は、求菩提山八天狗像であるが、これが神武天皇の道案内をした頭八咫烏である。その中心の大天狗が、豊前坊=大物主である。
菟田の穿邑を象徴する場所が、川崎町の天然記念物である中元寺川の甌穴群である。
『日本書紀』に残されている「天磐盾に登り」という短い文書であるが、立岩神社の事だと思われる。
立岩神社の壊れた石は、天磐船というモニュメントだったと思う。神武天皇は、船をかたどった石のモニュメントが、倭奴國のモニュメントだと考えていたようである。
何故かは知りませんが、立岩神社の磐船をぶっ壊している。
私は、これで「倭奴国滅亡し、邪馬臺国成立」したというドンでもない説を掲げている。
『日本書紀』の「天磐盾に登り」東征成就を天祖に祈願した所は、『射手引神社社伝』に「立岩:天皇が天祖に祈願し給ふたところ」とあるように同じ所で、立岩遺跡の甕棺からは、鉄剣や鉄矛、その鉄剣・鉄矛に巻いてあった絹の跡が出土している。 更に驚くことは、後漢式鏡より古い前漢式鏡が、数面出土している。
私がいうところの倭奴(いぬ)國、光武帝より金印を貰ってきた国は、立岩の土地=遠賀川流域で、前漢式鏡ももらっている。後漢式鏡ももらっている可能性を考えている。
● 大物主の子孫の姫と婚姻した後、邪馬臺国の成立
『古事記』の内容では、神武天皇は香春にやって来て、美和の大物主神の子孫である比売多多良伊須気余理比売を正妃としている。
大物主の神が、鷹巣山に祭っている限りにおいては、大物主の子孫は、鷹羽の国にいた。だから、鷹羽の国にいた比売多多良伊須気余理比売を正妃にして倭国の王として即位したという事を『古事記』の中から考えている。
神武天皇は、大物主の土地で大物主の子孫の姫と婚姻することによって、この豊葦原中洲、つまり大物主の国に自分の国を建てられたと考えざるを得ない訳である。
有名な『魏志倭人伝』の中、終わりの方に「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立し王と為す。名付けて卑弥呼と曰う。」とある。
したがって、神武天皇が即位した「辛酉」年は、西暦107年に倭国王帥升が安帝に遣いを出した年と卑弥呼が、238年に魏の帯方郡に遣いを出した年の間には121年と181年の2回しかない。
何故、121年が神武天皇即位年に選択したかと言うと卑弥呼が共立される前に男王が7、80年いたと書かれているからである。
7、80年いた最初の男王というのは、『古事記』『日本書紀』中の神武天皇である。西暦121年に約80年足した西暦200年に卑弥呼が共立されたという事で、算数があまりもピッタリすぎて気持ちが悪いくらいである。
神武天皇の後に、正妃に迎えた大物主の子孫の姫との間に産まれた皇子神渟名川耳尊が、菊池・山鹿方面から神武東征に従って来たと思う手研耳命大王を弑し、王位を奪うという事件が起きる。
『日本書紀』に「太歳己卯」と書かれているので、西暦139年になる。
『後漢書』や『魏志倭人伝』に書かれた倭国大乱であるが、『後漢書』にある桓・霊の間というのは、後漢の桓帝、霊帝の時代で、146~189年に起きている。
日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡、魏の曹操の墓から出てきた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、後漢の鏡である。倭国大乱も後漢の時代である。卑弥呼が共立されたのも後漢の時代である。勿論、神武天皇の即位も後漢の時代である。
卑弥呼が共立された年が、西暦に直すと200年であるというのは、『日本書紀』神功皇后紀に書かれている。
ところが、神功皇后は、卑弥呼より干支60年掛ける2倍の120年後の人物であると明治時代以来、色々な学者により唱えている。それを私も支持している。
『日本書紀』神功皇后紀には、卑弥呼に関する記事、魏志に曰くを神功皇后39年とかに投げ込むのである。
西暦121年に神武天皇が、即位。邪馬臺(やまと)国の成立である。
私は、邪馬臺を「やまと」と読んでいる。今の高校の日本史の教科書でも邪馬台(やまたい、やまと)国と仮名がふっている。
日本の古典、時に『万葉集』とか『古事記』とか『日本書紀』。特に『日本書紀』は、この臺の字を例外なく「と」と読んでいる。
何故、歴史学者たちが、邪馬臺国を「やまたい国」と読み始めたのかが、むしろ解らないくらいである。