「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 飛鳥時代の遣隋使・遣唐使 - 天智系 と 天武系 -
(令和二年九月二二日(火)収録、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)
「日出処天子」と云われた阿毎多利思比孤と崇峻天皇・推古天皇
飛鳥時代を扱った「天皇家と蘇我氏の歴史」の中にある崇峻天皇から語る。
左側が『日本書紀』の原文であるが、その右側に解説を載せる。この解説で示したように紀男麻呂宿禰から言えることは、この段階では豊国側は、新羅とは敵対していたと言える。
この点に注意しておいて下さい。この関係が、何処かの段階で変わる。
西暦591年に豊国の2万余りの軍が筑紫へ行った。この豊国の軍隊は、何をする為に筑紫へ行ったのか? という問い掛けから私の疑問が始まっている。
西暦591年の翌年、崇峻天皇五年の日本書紀の原文、十一月記事に蘇我馬子が遣わした刺客によって、崇峻天皇が暗殺されたと書かれている。
これが、日本書紀に名高い唯一の天皇暗殺の記録である。西暦592年の事である。
豊国の軍隊が筑紫に派遣された西暦五九一年に、筑紫国の阿毎多利思比孤が法興年号を発布している。どの翌五九二年(端政四年)、豊国の崇峻天皇が逆臣蘇我馬子に暗殺されたのであるということを私が日本書紀から導き出した日本書紀のカラクリである。
豊国と筑紫国において、一方の国(筑紫国)が栄えるともう一方の国(豊国)では、天皇の暗殺が起きたのである。
西暦五九一年、筑紫国の阿毎多利思比孤が法興年号を発布したという手掛かりは、古代の逸年号(いつねんごう)とか、九州年号、私年号(しねんごう)とか呼ばれる年号の中にある。
法隆寺金堂に安置している釈迦三尊像の光背銘(金文)の中に「法興元三十一年歳次辛巳」という年号が残されている。干支が「辛巳」であるから、法興元三十一年は西暦621年に当る。この年に、阿毎多利思比孤の母親と后が同時に亡くなったという事が伺える。
その翌622年に本人(日出処天子と呼ばれた阿毎多利思比孤)が薨去したという事が見えている。この622年は、いわゆる聖徳太子(廐戸皇子)が亡くなった年でもある。
このスライドの題名にあるように「筑紫年号と豊国年号」に分けた。佃収氏の説を編集し、上段の「法興」からの年号が、筑紫側で「仁王」、「聖聴」と続く。
下段の「端政(たんじょう)」は、崇峻天皇の年号である。次の「告貴」と呼ばれる年号は推古天皇の時代の年号である。「願転」、「光元」も推古天皇の御世の年号になる。
筑紫側の阿毎多利思比孤の年代と崇峻天皇・推古天皇の年代が重なっていて、上段の青字で示した年号が、倭国本朝側の年号であるから筑紫年号と記した。
下段の赤字で示した年号の「端政」が崇峻天皇、「告貴」から続く「願転」、「光元」は推古天皇の年号と思われるので、倭国東朝の年号であり豊国年号と記した。
青字と赤字で示した対比の筑紫側(倭国本朝)と豊国側(倭国東朝)という概念を持ってみて下さい。青字で示した倭国本朝側が、この題名の副題にある「天武系」で後に天武天皇(筑紫君薩野馬)が出てくる。
また、赤字で示した倭国東朝側が「天智系」であり、後に天智天皇が出てくる。
「日出処天子」である阿毎多利思比孤は筑紫側、倭国本朝で「天武系」であり、推古天皇は、豊国側の倭国東朝で「天智系」である。その2つの王朝が並び立っていたかぎりは、京師も福岡県の東西に同時に2ヶ所にあった。
筑紫側の倭国本朝の京師は、大宰府であり代表的な京師である。倭京元年618に出来たと考えているが、その「倭京」という年号が、古代の逸年号とか九州年号という年号の中に残されている。
「和+京と縄」の文字の画像の年号は、かなり新しく熊本県で見つかった納音(なっちん)付き九州年号対象表と我々が呼んでいる中に表れた年号である。
「和」と「京」が一文字となって、「縄」の字との年号になって「わきょうじょう」と読むのか、または「わじょう」と読むのか分からないが、たぶん「倭京」と同じ年号だと思われる。
ここにある「縄」という字が示すようにこの京師は、東西南北に綺麗に墨縄が張られたように碁盤目状だったということを意味している。
大宰府というは、通説では地方の役所だったという扱いになっているが、私は明らかに「日出処天子」である阿毎多利思比孤が、西暦618年に完成させた条坊制の京師跡だろうと考えている。
その大宰府の京師に対し、推古天皇の京師は、「福原長者原官衙遺跡」の冊子にある地図で示す行橋市の椿市廃寺の近くの須磨園の国府推定地だろうと思われる。
福岡県の東西に京師が、並び立っていたという事である。