「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代 蘇我氏は「みやこ町」にいた
 (令和三年睦月二六日収録、第19回 古代史講座 第二部、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)

 近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代  蘇我氏は「みやこ町」にいた

「福原長者原遺跡」の地図
令和三年睦月二六日収録
第19回 古代史講座 第二部
主催:田川広域観光協会
撮影・編集:豊の国古代史研究会
  記紀万葉研究家 福永晋三
近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代
  蘇我氏は「みやこ町」にいた

  『近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代 蘇我氏は「みやこ町」にいた』(令和3年1月26日)の6分割の講演
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 田川広域観光協会の第10回頃に「年号は田川から始まった」という古代史講座の中で話している内容の改定版の講座に当る。
 新しい情報もかなり継ぎ足しているので、また、田川(旧田川郡)と京築(旧京都郡)がひとつの豊国(=倭国)として古代史において機能していたという私の歴史観を再び語っていく。

 タイトルのスライドにある地図は、いつも使わせてもらっている福原長者原遺跡の冊子から採った地図である。この講座では、「近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代」という題名を出している。

 

「通説側の近つ飛鳥・遠つ飛鳥」のいう内容から入る。大阪府立近つ飛鳥博物館が出している解説である。

近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代
通説側の近つ飛鳥・遠つ飛鳥
 「近つ飛鳥」という地名は、七一二年口述筆記された「古事記」に記載があります。
 履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。
 「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。
 この「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道ー竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する六世紀中葉以降の群集墳が広がっています。
 また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれています。
(大阪府立近つ飛鳥博物館)

* 0-1:「近つ飛鳥」と言葉は、古事記にはあるが、日本書紀には無い。

 

近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代
通説側の近つ飛鳥・遠つ飛鳥
地図(通説側の近つ飛鳥・遠つ飛鳥)

   Ⓒ大阪府立近つ飛鳥博物館 

 地図にあるように近畿では、西から難波津、近つ飛鳥、遠つ飛鳥となる。通説における近つ飛鳥・遠つ飛鳥という事で一旦、頭において下さい。
 福永説は、この近つ飛鳥・遠つ飛鳥が全部北九州、旧田川郡・旧京都郡になる。

 

 福永説の近つ飛鳥は、行橋側(旧京都郡)になる。この地図は、平凡社が出版している「地図で見る西日本の古代」という図札の中からコピーをとって復元している。

福永説「近つ飛鳥
地図(福永説)「近つ飛鳥」

 Ⓒ平凡社 

 この地図の中で、後期豊前国府?は、須磨園の所である。豊前国府等がこの平凡社の本の中で想定されている。また、この地図の中に今川が流れている事にも注目しておいて下さい。

 

 次が、福永説の遠つ飛鳥の地図である。近つ飛鳥の地図にあった今川の上流に当る。

福永説「遠つ飛鳥
地図(福永説)「遠つ飛鳥」

 Ⓒ平凡社 

 今川は、赤村までさかのぼり、油須原の所で90度南に折れ曲がって更に上流へと行く。赤村の西側、川崎町も入っている。

 地図で説明したところが、私がずーっと唱えてきた近つ飛鳥・遠つ飛鳥であり、近畿とは位置関係が逆になる。要するに行橋側が難波津で、行橋市とみやこ町を併せた旧京都郡が近つ飛鳥である。赤村、大任町、川崎町辺りが遠つ飛鳥という事になる。
 これが、通説と福永説の大きな違いである。

 

以下の項目について、詳細をページ別に示す。

・「飛ぶ鳥の明日香」 なぜ「飛鳥」と書いて「あすか」と読むのか?
  飛鳥川の古歌、古今和歌集巻第十八 雑歌 下
  狭井河の新比定
  犀川の流路変遷、犀川(飛鳥川)

 

・狭井河 → 飛鳥川
 (神武天皇の時に狭井河と呼ばれた川が、古今和歌集で、何故、飛鳥川に変わっているか?)
 「カラスは八咫烏のカラスに同じ」(鞍手郡誌)
・頭八咫烏は、神武天皇から褒美で頂いた土地「飛ぶ鳥の明日香」
・枕詞「飛ぶ鳥」の正体
・赤村大原の南を流れる川、十津川。十の渡し場の川である
・倭(邪馬台)国の女王卑弥呼は、「アスカ」の女王でもある   

 

・(仁徳天皇紀)の時代に犀川(飛鳥川)が折れ曲がり今川となった
・流末(行橋市)   
・入覚(行橋市)   
・池田遺跡は和珥池+横野堤⁉   
・池田遺跡地図

 

・大伴金村と「たぎり」、大友金村の業績
・継体天皇の宮、継体天皇
  継体天皇が、倭(遠つ飛鳥)にいたのは最後の五年のみ
・近江国の高嶋郡の三尾の別業は、飯塚市上三緒辺りか
・瀬須殿(セスドノ)古墳は、武烈天皇陵か
・磐余玉穂宮(玉穂山に鎮座する稲荷神社)
・稲荷神社から倭三山(香春岳)を望む

 

・二中歴(九州年号)
・豊国年号(西暦対照表)
・天皇家と蘇我氏の歴史「継体天皇」
  長門(山口県)より東を制すという
  継体天皇紀に亡くなった年が、2回出てくる
・求菩提山縁起(継体天皇は、第27代。日本書紀の第26代とは異なる)

 

・天皇家と蘇我氏の歴史
  安閑天皇(534~536) 国内のあちこちに「屯倉」を置く
  宣化天皇(536~539) 蘇我稻目が大臣として登場
              那津に官家を修造し、穀稼を収蔵し備蓄した
・那津の官家があった場所は、中間市長津

 

・天皇家と蘇我氏の歴史
  欽明天皇(539~571)
・磯城嶋金刺宮は、福智町金田の敷島辺り
  金刺宮の御宇に倭王武の玄孫「牛慈」が夜須評督と為る「紀氏王権の禅譲」
・難波祝津宮に遷都する(都が遠つ飛鳥から近つ飛鳥へ遷る)
・大伴金村の墓が糸田町岩屋古墳?
・蘇我稲目が天皇家の外戚になる
・崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿が対立する
・蘇我稲目の墓がみやこ町の甲塚方墳

 

近つ飛鳥時代の都と天皇陵と蘇我氏の墓
地図「行橋市 福原長者原遺跡

流末

入覚

黒田神社

庄屋塚古墳

稲童古墳群

上記の地図上に示した所
 甲塚方墳
 流末
 椿市廃寺の辺り
 椿市廃寺の前身
 黒田神社
 橘塚古墳
 稲童古墳群
  八雷古墳
 庄屋塚古墳


  ・・・ 蘇我稲目の墓
  ・・・ 難波の堀江(物部尾輿が仏像を投げ捨てた)
  ・・・ 海石榴市の駅舎(尼等を杖刑に処した)
  ・・・ 海石榴市宮(炊屋姬皇后(推古天皇の皇后時代)の別荘)
  ・・・ 池邊雙槻宮(用明天皇)
  ・・・ 科長中陵(橘豐日天皇(用明天皇))
  ・・・ 物部氏の墓
  ・・・ 守屋の資人捕鳥部萬の墓
  ・・・ 磯長陵(譯語田天皇(敏達天皇))

 

・天皇家と蘇我氏の歴史
  敏達天皇(572~585)
・尼等を杖刑に処した海石榴市の駅舎は、椿市廃寺辺り
・「金光七年」が、敏達天皇御宇にあった「彦山権現垂迹縁起抜書」
・天皇家と蘇我氏の歴史
  用明天皇(585~587)  ・池邊雙槻宮は、みやこ町勝山黒田の黒田神社?
・聖徳太子とされる廐戸皇子が出てくるが、阿毎多利思比孤が聖徳太子のモデル
・炊屋姬皇后(推古天皇の皇后時代)の別荘が、椿市廃寺の前身
・橘豐日天皇(用明天皇)の科長中陵が、橘塚古墳

 

・天皇家と蘇我氏の歴史
  崇峻天皇(587~592)
  物部氏と蘇我氏の争い
・稲童古墳群が物部氏の墓、そこから金銅立飾付眉庇付冑が出土
・四天王寺(椿市廃寺)、法興寺の建立
  船迫窯跡の鴟尾(百済様式)の復元
・八雷古墳は守屋の資人捕鳥部(よろず)の墓
・庄屋塚古墳が敏達天皇(譯語田天皇於)が葬られた磯長陵
・崇峻四年(591)に筑紫に2万余の軍隊が派遣された
  591年に筑紫に誰がいたのか?
・筑紫で591年に阿毎多利思比孤が「法興」という年号をたてた

 

 以前に田川観光協会主催の古代史研究会で話をしたみやこ町の歴史も田川の歴史も同じ共通の土台の中で天皇家の歴史として繋がっている事が見えてこようと思もう。
 この話の続きは、豊の国古代史研究会の令和2年9月22日(火)収録の「飛鳥時代の遣隋使・遣唐使 -天智系と天武系-」になる。
 今日は、近つ飛鳥と遠つ飛鳥の話を復習を兼ねながら、新たにみやこ町の古代ダムと日本書紀のつながりを述べた。

「遣隋使 小野妹子」画像
飛鳥時代の遣隋使・遣唐使
  - 天智系天武系
令和二年九月二二日()収録
主催 豊の国古代史研究会
撮影・編集 豊の国古代史研究会
記紀万葉研究家
神功皇后紀を読む会・主宰
福永晋三

(注)本講演動画は、無料部分の一部のみが公開されています。
 
<動画説明コメント>
 「倭国=豊国説」の立場から、飛鳥時代の天皇家と蘇我氏、白村江の戦いと壬申の大乱などを講演し
 てきた福永晋三先生のこれらを総合した講演を発表である。
  ① 壬申の乱は天智天皇(倭国東朝)と天武天皇(倭国本朝)の両者の直接の戦いだったとし、
  ② 隋書倭国伝中の日出処天子(聖徳太子のモデル)の対隋外交にさかのぼり、
  ③「 唐・新羅連合軍と戦って全滅した天武系の四百艘」と「戦わなかった天智系の六百艘」を
   抽出し、
  ④ 「白村江の戦い」で負けなかった天智天皇が「日本国を建国」した、
 との驚愕の歴史を描き出す。ついに、福永氏の「倭国=豊国説」が爆発した!