「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宮若市・鞍手郡の(いにしえ)

※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
 (令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)

(2)吉野ヶ里筑豊の共通点

立岩式石包丁の分布
写真:『石包丁の使い方』

 石包丁の使い方
(出典元:公益財団法人
     広島県教育事業団)

地図:『立岩式石包丁の分布』

吉野ケ里遺跡

 立岩式石包丁の原材料は、笠置山から採れる輝緑凝灰岩(きりょくぎょうかいがん)である。また、飯塚市の焼ノ正(やけのしょう)遺跡からは、立岩式石包丁の工房跡が見つかっている。
上図の立岩式石包丁の分布範囲の中に吉野ケ里遺跡も入っている。

 

 吉野ヶ里筑豊の共通点(吉野ヶ里

吉野ヶ里筑豊の共通点
図『吉野ケ里遺跡の環濠集落の範囲』

 吉野ケ里遺跡の環濠集落の範囲

地図『立岩式石包丁の分布』

吉野ケ里遺跡

 

吉野ヶ里遺跡甕棺(かめかん)()
写真『吉野ヶ里遺跡の甕棺墓囲』
写真『吉野ヶ里遺跡の甕棺墓囲』

 第277調査区

 

写真『横田遺跡出土の銅鏡と鉄刀』
写真『二塚山遺跡出土の中国前漢時代の銅鏡』

横田遺跡出土の銅鏡と鉄刀

二塚山遺跡出土の
中国前漢時代の銅鏡

※2-1

 二塚山遺跡:三養基(みやき)郡上峰村堤および神埼郡吉野ヶ里町の旧東脊振村東山にわたって存在する遺跡

※2-2

 横田遺跡:吉野ヶ里遺跡から約1キロの東方、神埼郡吉野ヶ里町の横田丘陵上に位置する

 

写真『墳丘墓出土の銅剣』
写真『丘墓出土のガラス製管玉』

墳丘墓出土の銅剣

墳丘墓出土のガラス製管玉

 

地図『吉野ケ里町周辺の墓地と銅鏡』

写真『二塚山遺跡の甕棺墓の出土物』

吉野ヶ里町周辺の有力集落の墓地と銅鏡

二塚山遺跡の甕棺墓から
出土した朝鮮半島製の鉄矛
と小形倣製鏡(ぼうせいきょう)

 

吉野ヶ里遺跡周辺の銅鏡の変遷(吉野ヶ里町誌 P.303)

 中型鏡所有者(首長)の墳墓の場所は、鏡式と出土墳墓の形態などから考えると、吉野ヶ里町二塚山〔 連弧文「洯清白(けつせいはく)」鏡〕→吉野ヶ里町三津永田〔流雲文縁獣帯鏡〕→上峰町二塚山〔鋸歯文縁獣帯鏡〕→吉野ヶ里町横田(松原)〔方格規矩四神鏡〕・吉野ヶ里町松葉〔方格規矩四神鏡〕→二塚山〔長宜子孫連弧文鏡〕・三津永田〔 長宜子孫連弧文鏡〕→上峰町坊所一本谷〔長宜子孫連弧文鏡〕へ、弥生時代中期後半(紀元前1世紀)から少なくとも後期中頃(紀元後2世紀)までの間に移動し続けている。
 これらの墓地の中で有力者を多く葬った墓地は吉野ヶ里遺跡の北方に位置する三津永田遺跡と、東方に位置する二塚山遺跡であり、ほとんどが吉野ヶ里町域に存在する。なお、大型鏡としては吉野ヶ里遺跡から出土した復元径 22.2cmの連弧文鏡と考えられる中国後漢時代の銅鏡の破片がある。 
 古野ヶ里集落の首長は、中期前半から中頃までは銅剣が添えられ吉野ヶ里の墳丘墓に埋葬されたが、中期後半以後は、中国の権力を帯びた鏡や刀を添えて出身地である集落の墓地に葬られた可能性がある。

 

 吉野ヶ里筑豊の共通点(筑豊

吉野ヶ里筑豊の共通点
地図『集落の分布密度』
写真『立岩遺跡の前漢鏡』
図『大任町成光遺跡の鏡図』

立岩遺跡掘田甕棺群
出土品の前漢鏡

大任町成光遺跡
出土品の八禽鏡(はちきんきょう)

※ 前漢:紀元前206年 〜 8年までの王朝

 

立岩遺跡倭奴国の遺跡
 鉄剣・鉄矛・刀子・絹
写真「前漢式鏡」
写真「甕棺」
写真「鉄剣・鉄矛」

前漢式鏡

 立岩式石包丁の分布範囲(流通圏)が、倭奴(いぬ)国と云う国である。立岩遺跡は、倭奴国の遺跡という事になり、倭奴国と云う国が誕生して訳である。

 

写真『』
写真『』

管玉やガラス玉で造られた首飾り