「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
(令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)
(8)伊豫の熟田津の石湯は、宮若市の千石峡だった!
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天武天皇の13年(685年)10月14日の大地震により、伊予の石湯は埋もれて出なくなり、復活したという記録は何も無い。
通説では、伊予の石湯は、愛媛県松山市の道後温泉だと言われているが、現在も湯量の豊富な温泉である。
(注九)
「贄田物部氏が四国の伊豫に移動した」とあるように、「伊豫」という地名が鞍手郡から愛媛県へ移動した。
※8-2
ここに挙げた「温泉記」は、『源氏物語』の注釈書である『河海抄』に引かれている。
「温泉記」には、海までの距離は、2〜3里の書かれている。ここでの里(短里)は、1里(67.5m)なので、135m〜203mと海まで非常に近い。
松山市の道後温泉は、現在海岸まで約8kmはある。かつ、まわりに岩も無ければ山も無い平野の中である。したがって、道後温泉は、「温泉記」に書かれた豫州温泉では無い。
※8-3
里については、こちらに「倭人は周里を用いた(歩と里の概念)」のページがあります。
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チャンチンモドキ
(説明の概要)
平成7年11月に、この植物研究家がここ笠置山にて、奇木「チャンチンモドキ」を発見しました。
日本では九州南部の限られた地域でしか確認されていない「チャンチンモドキ」は、高さは15mにもなり、幹は黒みを帯びて縦に亀裂が入っています。
150本もの群落を確認できたことによって南方系の樹々の北限(熊本県)が変更になり、学術的に話題を呼んでいるそうです。
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チャンチンの「チン」は、中国語で「椿」だそうです。と講師の先生から説明がありました。
そのチャンチンモドキの木は、さらに上に伸びて、高さ20m近くになっていました。落葉樹とのこと。やさしい感じの木のようでした。
(平成13年8月24日、前々日の「星座観測」に引き続いて「子ども探検隊・自然観察」が、宮若市千石峡キャンプ場周辺で宮田町の子どもたち対象に実施)
チャンチンモドキの実
(冬にも花が咲き実が生る)
※8-4
『伊豫國風土記』「いさにはの岡 椹の木 臣の木」の部分。
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伊豫の石湯へ天皇の方々が、五度行幸されている。
一度:大帯日子天皇(景行天皇)と太后八坂入姫命
二度:帯中日子天皇(仲哀天皇)と太后息長帯姫命(神功皇后)
三度:上宮聖德皇子(聖徳太子となっている)
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伊豫の石湯へ天皇の方々が、五度行幸されている。(つづき)
四度:岡本の天皇(舒明天皇)と皇后(宝姫王、後の皇極天皇)
五度:後の岡本の天皇(斉明天皇)、近江の大津の宮に御宇らしし天皇(天智天皇)
浄御原の宮に御宇らしし天皇(天武天皇)
※8-5
神功皇后伝説ゆかりの笠松神社(宮若市四郎丸1856)
前述の『伊豫國風土記』にある伊佐爾波の岡の碑文に「法興六年」とあるが、この法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像の光背銘にも「法興」という年号が彫られている。
この仏像が、聖徳太子のモデルである『隋書』俀国伝中の「日出ずる處の天子」という大宰府の王である。この王が、宮若市の千石峡(伊豫石湯)まで行幸された。
伊豫の石湯に二度目に行幸された大帯日子天皇(景行天皇)と日本武尊は親子でなく戦っている敵同士である。したがって、熊本から出てきた景行天皇が、鞍手の土地に来たとは思えない。これは後の時代の間違いで、二度目に行幸されたのは、日本武尊のはずである。これが新しい福永説である。
「日出ずる處の天子」の阿毎多利思北孤は、倭国本朝の倭京(大宰府)にいた天子である。
阿毎多利思北孤は、大業三年(六〇七年)に第一回目の遣隋使を出した。その時の国書が「日出ずる處の天子・・・」云々である。国書という物の常識で言えば、現代でも国王か大統領しか出せない。日本では天皇陛下が出している。内閣総理大臣では無い。
したがって、太子の身分では、国書は出せない。このような常識が歴史学者に通じない。聖徳太子が国書を出したという。最近になってやっと聖徳太子はいなかったと少し言われるようになった。
倭国地図
倭国本朝
倭国東朝
阿毎多利思北孤の時代の福岡県に二つの王朝があった。筑紫側が 阿毎多利思北孤の倭国本朝。豊国側が、倭国東朝である。遠賀川流域は、元々は豊国だったが、ここの物部氏が筑紫側についた。それで、現在の筑前になった。
所田温泉(宮若市社会福祉センター)
所田温泉は昔、石炭産業で栄えた筑豊地区に湧き出る温泉です。そもそもこの温泉、大正7年に炭鉱の試掘中に湧き出たものだそうです。
場所は宮若市の郊外、周囲に水田が広がる中です。
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復活した「伊豫熟田津石湯」
神の井
所田温泉の湯脈は、かつて千石峡に沸いていた温泉の湯脈と同じである。
万葉集323番に詠われた「熟田津に船乗りしけむ年」というのが、万葉集8番の四世紀に神功皇后が船乗りした年が、八世紀の山部赤人には、何時の時代かわからなくなっていた。