「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宮若市・鞍手郡の(いにしえ)

※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
 (令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)

(8)伊豫の熟田津の石湯は、宮若市の千石峡だった!

熟田津はどこか
 伊予の石湯は天武十三年((685年))十月十四日の白鳳地震(南海トラフ大地震)により
伊予の温泉、埋もれて出でず
となる。
 道後温泉は今日も豊富な湯量を誇る温泉である。

 松山市にニギタ」の地名は存在しない

 伊佐爾波(いさにわ)神社も聖徳太子の温泉碑もすべて新たに造られたものに過ぎない。(偽物)

本当のニギタ津はどこか

 天武天皇の13年(685年)10月14日の大地震により、伊予の石湯は埋もれて出なくなり、復活したという記録は何も無い。
 通説では、伊予の石湯は、愛媛県松山市の道後温泉だと言われているが、現在も湯量の豊富な温泉である。

 

新分(にひきた)郷』の再発見
【和名鈔九巻】 鞍手郡郷名 六
金生 加奈布
生見 伊無美
新分 爾比岐多
二田 布多多
十市 止布知
粥田 加都田
 『新分郷』は西川新北(にぎた)の地其本據にて、鞍橋(くらじ)君の子孫鞍手郡司などの家が、分封を此の地に開きて地方を領せしに出るなるべし、現に郷内に鞍橋君を祀りし黒治社の廢址ありて、大字()(のぶ)は其區域(くいき)を延長したる意に出づるか。
 西川・劍・古月の三村と、植木の一部を含みて、東北部は當時洲渚(しゅうしょ)の間に在りて、敢て民居に()へざりし地域なりしかば、東西に狹長なる區域(くいき)なりしならん。古墳あり。
(「鞍手郡誌」一〇九・一一〇頁)

※8-1

 「和名鈔」にある鞍手郡の現在(後の)の地名:   
  ・金生(加奈布(かなふ)) ・・・ 宮若市金生(かのう)  
  ・生見(伊無美(いなみ)) ・・・ 宮若市宮田生見(ぬくみ)
  ・十市(止布知(とふち)) ・・・ 宮若市沼口都地(とち)(十市皇女は、この地の出身)
  ・新分(爾比岐多(にひきた)) ・・・ 鞍手町新北(にぎた)
  ・粥田(加都田(かつた)) ・・・ 後の粥田(かいた)荘(香井田村)

 

伊豫について
 万葉集の左註にある「伊豫の石湯」の伊豫と鞍手郡との関わりは、これまでの古典の常識からは想像もつかない。ところが、大正年間の地形図には鞍手郡の猪倉と藤郷の近くに「伊豫」という名の小集落があった。ここは昭和前期の湿地化で消滅した。この少し南、小牧村の丘陵地内に明治前期までは「伊豫谷」と呼ばれた小字があった(一九)
 近年、ここから一一〇〇年前の平安時代の火葬墓の跡が発掘された(二〇)
 地名考によると、小牧村の名前の由来は、後鳥羽帝の建久年間(1190~1198)に「伊豫」という武士がこの辺りに牧場を開いて馬を牧したことによる(二一)
 さらに古代にはこの辺りにいた贄田(にえた)物部氏が四国の伊豫に移動した(注九)
 このように、この辺りと「伊豫」との結びつきは意外に深いことが分かったが、今のところ、この辺り全体を伊豫と呼んだという証拠は見つかっていない。

(注九)

 「贄田物部氏が四国の伊豫に移動した」とあるように、「伊豫」という地名が鞍手郡から愛媛県へ移動した。

 

伊豫の石湯探し
 豫州温泉はその勝天下に冠絶し、その名人中に著聞す、累々として山頭より出で、潺潺(せんせん)として海口に(およ)ぶ、中底白砂潔く四隅青岸斜なり、朝宗すること是れ幾許ぞ、海を辞すること二三里。
     (「温泉記」原漢文)(後略)
(私訳)
 豫州(よしゅう)温泉というのは景勝地であって、当時人々によく知られていた。温泉は累々と岩が連なり重なりあった山の(ほとり)から湯が流れ込んでいる。
 そして、温泉からはその湯が音を立てて谷を流れ下って海に流れ込んでいる。透き通った水を通して海底の白砂が見える。
 その海は四方を鬱蒼(うっそう)とした森林に包まれた険しい山々に囲まれ、周辺から多数の沢が流れ込んでいる。
 その海までの距離は二三里(135~203m)である。

※8-2

 ここに挙げた「温泉記」は、『源氏物語』の注釈書である『河海抄(かかいしょう)』に引かれている。

 「温泉記」には、海までの距離は、2〜3里の書かれている。ここでの里(短里)は、1里(67.5m)なので、135m〜203mと海まで非常に近い。
 松山市の道後温泉は、現在海岸まで約8kmはある。かつ、まわりに岩も無ければ山も無い平野の中である。したがって、道後温泉は、「温泉記」に書かれた豫州温泉では無い。

※8-3

 里については、こちら「倭人は周里を用いた(歩と里の概念)」のページがあります。

 

風土記逸文の温泉碑
 険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。
 椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。
 ちょうど『法華経』にある五百の羅漢が、五百の衣傘をさしているように思われる。
 朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。
 赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような、椿の実は花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている
 この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。

 

伊豫の石湯の実景描写
 温泉は景勝地にある。
 温泉は海に近い。その海は四方を険しい山に取り囲まれた中海である。その広さは四方の山から流れ込む沢が見分けられる程度の広さである。
 温泉から海中の白砂が覗ける。
 温泉には岩がごろごろしている。
 温泉からの水は音を立てて海に流れ込んでいる
 山には森林が生い茂り、木の間越しに周囲の険しい稜線が覗ける。
 温泉の上は椿の枝がすっかり覆い被さっている椿の花は赤い
 温泉の上には、果実の実が重そうに垂れ下がっている。
 実のなる木が多く、小鳥がよく集まる
 温泉はぬるい
 現在は湯が出ていない

 

チャンチンモドキ

  

(説明の概要)
 平成7年11月に、この植物研究家がここ笠置山にて、奇木「チャンチンモドキ」を発見しました。
 日本では九州南部の限られた地域でしか確認されていない「チャンチンモドキ」は、高さは15mにもなり、幹は黒みを帯びて縦に亀裂が入っています。
 150本もの群落を確認できたことによって南方系の樹々の北限(熊本県)が変更になり、学術的に話題を呼んでいるそうです。

  

  

 チャンチンの「チン」は、中国語で「椿」だそうです。と講師の先生から説明がありました。

  

 そのチャンチンモドキの木は、さらに上に伸びて、高さ20m近くになっていました。落葉樹とのこと。やさしい感じの木のようでした。
(平成13年8月24日、前々日の「星座観測」に引き続いて「子ども探検隊・自然観察」が、宮若市千石峡キャンプ場周辺で宮田町の子どもたち対象に実施)

  
写真「チャンチンモドキの木」
写真「チャンチンモドキの実」

 チャンチンモドキの実
(冬にも花が咲き実が生る)

  

 

伊豫の石湯を犬鳴川
    八木山川水系に探す
写真「犬鳴川」

 犬鳴川の巨石
(脇田温泉の辺り)

写真「八木山川(穂掛神社の前)」

穗掛神社の前の淵

地図「犬鳴川・八木山川水系」

 

伊豫の石湯は千石峡だった
写真「千石峡」
写真「千石峡」
写真「千石峡」
写真「千石峡」

 

伊豫の石湯は千石峡だった
(略) 時に、大殿戸に(むく)臣木(おみのき)とあり。其の木に(いかるが)鵤と此米鳥(ひめどり)
集まり止まりき。
 天皇、此の鳥の為
に、枝に穂等を()
て養ひたまひき。

     (原漢文)
写真「此米鳥(シメドリ)」

此米鳥(シメドリ)

穗掛神社

写真「穂掛神社」
写真「滝」
写真「穂掛神社」

※8-4

 『伊豫國風土記』「いさにはの岡 (むく)の木 (おみ)の木」の部分。

 

伊豫の石湯は鞍手郡の遺産
伊豫国風土記逸文
「伊豫国風土記逸文」

 伊豫の石湯へ天皇の方々が、五度行幸されている。
  一度:(おお)(たらし)日子(ひこ)天皇(景行天皇)と太后八坂入姫命
  二度:帯中(たらしなかつ)日子(ひこ)天皇(仲哀天皇)と太后息長(おきなが)(たらし)(ひめ)命(神功皇后)
  三度:上宮聖德皇子(聖徳太子となっている)

 

伊豫の石湯は鞍手郡の遺産
「伊豫国風土記逸文」

 

伊豫の石湯は鞍手郡の遺産
「伊豫国風土記逸文」
写真「穂掛神社」

 伊豫の石湯へ天皇の方々が、五度行幸されている。(つづき)
  四度:岡本の天皇(舒明天皇)と皇后(宝姫王、後の皇極天皇)
  五度:後の岡本の天皇(斉明天皇)、近江の大津の宮に御宇らしし天皇(天智天皇)
     浄御原(きよみはら)の宮に御宇らしし天皇(天武天皇)

 

伊豫の石湯は鞍手郡の遺産
 仲哀帝は皇后と共に、宿陣ありし地を出て香椎宮にと急かせ玉ふ。
 さかしき山坂をこへさせ給ひしに道にて暴雨にあひ玉ひければ、其ほとりなる松樹のもとに立よりて雨を避け玉ふ、後に其木を笠松と名付て、最も古き木の近き世までありしが、今枯てなくなれり。
(鞍手郡誌)
写真「笠松神社 笠掛の松」

※8-5

 神功皇后伝説ゆかりの笠松神社(宮若市四郎丸1856)

 

上宮聖徳皇子(聖徳太子)の正体
法隆寺金堂 釈迦三尊像 光背銘
写真「釈迦三尊像の光背銘(法興元丗一年)」
写真「法隆寺金堂の釈迦三尊像」

 前述の『伊豫國風土記』にある伊佐爾波の岡の碑文に「法興六年」とあるが、この法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像の光背銘にも「法興」という年号が彫られている。
 この仏像が、聖徳太子のモデルである『隋書』俀国伝中の「日出ずる處の天子」という大宰府の王である。この王が、宮若市の千石峡(伊豫石湯)まで行幸された。

 伊豫の石湯に二度目に行幸された大帯日子天皇(景行天皇)と日本武尊は親子でなく戦っている敵同士である。したがって、熊本から出てきた景行天皇が、鞍手の土地に来たとは思えない。これは後の時代の間違いで、二度目に行幸されたのは、日本武尊のはずである。これが新しい福永説である。

 

上宮聖徳皇子(聖徳太子)の正体
倭国本朝の倭京
「和+京」「縄」
地図「大宰府」
「条坊図」

 「日出ずる處の天子」の阿毎多利思北孤は、倭国本朝の倭京(大宰府)にいた天子である。

 

上宮聖徳皇子(聖徳太子)の正体
 王妻號雞彌後宮有女六七百人太子歌彌多弗利。無城郭内官有十二等、一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼
 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子をわかんどほりと呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。

 

上宮聖徳皇子(聖徳太子)の正体
 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰、「聞海西菩薩天子重興佛法。故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰、「日出處天子書日沒處天子恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰、「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 大業三年((六〇七年))、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

 阿毎多利思北孤は、大業三年(六〇七年)に第一回目の遣隋使を出した。その時の国書が「日出ずる處の天子・・・」云々である。国書という物の常識で言えば、現代でも国王か大統領しか出せない。日本では天皇陛下が出している。内閣総理大臣では無い。
 したがって、太子の身分では、国書は出せない。このような常識が歴史学者に通じない。聖徳太子が国書を出したという。最近になってやっと聖徳太子はいなかったと少し言われるようになった。

 

飛鳥時代の倭国両朝
Google Earth「福岡県Flood Maps」

倭国地図

倭国本朝

倭国東朝

 阿毎多利思北孤の時代の福岡県に二つの王朝があった。筑紫側が 阿毎多利思北孤の倭国本朝。豊国側が、倭国東朝である。遠賀川流域は、元々は豊国だったが、ここの物部氏が筑紫側についた。それで、現在の筑前になった。

 

所田温泉(宮若市社会福祉センター)

  

 所田温泉は昔、石炭産業で栄えた筑豊地区に湧き出る温泉です。そもそもこの温泉、大正7年に炭鉱の試掘中に湧き出たものだそうです。
 場所は宮若市の郊外、周囲に水田が広がる中です。

  

  

 復活した「伊豫熟田津石湯

  

神の井

  
写真「所田温泉 宮若市社会福祉センター」

 所田温泉の湯脈は、かつて千石峡に沸いていた温泉の湯脈と同じである。

 

熟田津歌 別の一首
山部宿祢赤人伊豫温泉作歌一首并短歌
(三二二)
 すめろきの 神の命の 敷きませる国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宣しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思はしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 幸しところ
 神たる天皇がお治めになっている国のどこにも温泉は多くあるけれど、島や山の美しい国、険しい伊予鞍手郡)の高嶺にあるような温泉は滅多にない。その裏手の射狭庭の岡に立たれて歌を練られ、言葉を案じられた。この温泉の上の木の群れを見ると、臣下のように林立して生い茂っている。鳥の鳴く声も相変わらず聞こえ、この先もずっと神々しくなってゆくことだろう。幸ましになったここ伊予の湯場は。
(三二三)
反歌
 ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく
 かって、大宮人たちが船乗りしたという、その熟田津にいるが、船乗りしたのはいつの年のことなのだろう。

 万葉集323番に詠われた「熟田津に船乗りしけむ年」というのが、万葉集8番の四世紀に神功皇后が船乗りした年が、八世紀の山部赤人には、何時の時代かわからなくなっていた。