「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 香春の神と天皇

※  香春の神と天皇
(令和6年1月6日(土) 香春町郷土史会例会)

(1)大物主の国作り(倭成す大物主)

 大物主から香春との関係についてやり直す。『古事記』中では、早くも「大国主の国作り」に作り換えられる。結論から言えば、大国主は、大物主から17代の子孫である。17代もの長い間、香春を中心に続いた王家の最初の祖先である大物主と最後の子孫である大国主を一緒くたにしたのが、実は『古事記』のカラクリである。
 しかし『古事記』には、大物主から大国主までの歴史が一応バラバラではあるが、書いてある。ところが、『日本書紀』においては、大物主・大国主の記事は、1/10から1/20に削られる。これが、古事記と日本書紀の神代における一番の違いである。

大国主の国造り
 (ここ)多邇具久(たにぐく)白言しけらく、「此は久延(くえ)毘古(びこ)ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、即ち久延(くえ)毘古(びこ)を召して問はす時に、「此は神産巣日(かみむすひ)神の御子少名毘古那(すくなびこな「)神ぞ。」と答へ白しき。
絵「大国主」

Ⓒわかやま観光情報

絵「山田うどん食堂」

久延毘古(くえびこ)
山田の曽冨騰(そほど)

 古事記では、大国主が少名毘古那神と一緒に大倭国を作られたという事が書かれていた。ここに出てくる久延毘古というのは、山田の曽冨騰(そほど)山田の案山子(かかし)の事である。
 山田いうのは、旧山田市(現嘉麻市)の土地の事である。ここに久延毘古はいた。

 『日本書紀』は、西暦720年(養老4年)に編纂され、『古事記』はさらに前、西暦712年(和銅5年)に成立している。が、壬申の乱の後、天武朝になっており天智天皇の業績や豊国の神々の歴史も削られていった。

 ここで、既に伊弉諾・伊弉冉の国生みに書き換えられているが「秋津嶋」とある。これは、豊前・豊後、つまり豊国の歴史であり、大物主から始まる歴史が、伊弉諾・伊弉冉の国生みの所に移さている。

倭国の始まり-倭成す大物主
 大物主の倭国造りは古事記・日本書紀において伊弉諾・伊弉冉の国生みに書き換えられたようだ。
 如此言竟而御合生子、淡道之穗之狹別嶋。次生伊豫之二名嶋、此嶋者、身一而有面四、毎面有名、故、伊豫國謂愛比賣、讚岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣、土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別。次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別、熊曾國謂建日別。次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋、亦名謂天御虚空豐秋津根別。故、因此八嶋先所生、謂大八嶋國
                       (古事記国生み)
 結びに「秋津嶋」を生み、すべてを「八嶋國」と謂うとある。この記事は、中国の『漢書』地理志「楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云」や『後漢書』東夷伝倭条「倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより使訳漢に通ずる者三十許国なり。国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居る。」の記事と本来一致する。倭人は「山と島」に居住したのである。
大国主の国造り
倭成す大物主
 故、()れより、大穴(おおあな)牟遅(むぢ)(すく)名毘古那(なびこな)と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後は、其の少名毘古那神は、常世(とこよ)に度りましき。
 是に大国主神、愁ひて告りたまひけらく、「吾独して何にか能く此の国を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の国を相作らむや。」とのりたまひき。
 是の時に海を光して依り来る神ありき。其の神の言りたまひけらく、「能く我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らず国成り難けむ。」とのりたまひき。爾に大国主神曰しけらく、「然らば治め(まつ)(さま)()()にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐(いつき)(たてまつ)れ。」と答へ言りたまひき。此は御諸(みもろ)山の上に坐す神(=大物主)なり。

 17代後の大国主と大物主が一緒にされている。これが『古事記』のカラクリである。

 香春岳は、三輪山であると同時に天香山・耳成山・畝尾山の倭三山でもある。

三輪山(大物主神)= 倭三山
香山之畝尾木本名泣澤女神
昭和十年の香春岳

天香山

耳成山

畝尾山

昭和十年の香春岳(倭三山)

 天香山は、『日本書紀』神代 第七段 一書 第一に「天香山のを採りて日矛を作らしむ」とあり、また、『先代旧事本紀』巻二 神祇本紀に「採天香山之使造日像之鏡とあるようにが採れる山である。
 香春岳は、金と銅が採れる山であり、写真の自然金を見て、天香山であると決定付けられた。そうした時に『古事記』の一節に「天香山(香春三ノ岳)の畝の尾」とあり、香春一ノ岳が畝尾山になる。「」の字を音読みした時に「」であり、「うね」となる。

倭国の始まり-倭成す大物主
 大物主は別名「八千矛の神」でもある。この神が引き連れてきた部族こそおそらく物部氏二十五部族であろう。
 銅矛の出土状況がそれを裏付ける。神代の倭国も断じて近畿にはなかった。
「青銅器の分布(銅剣・銅矛・銅戈)」

 青銅器(銅剣・銅矛・銅戈(どうか))の出土分布を見れば、福岡県の出土数が圧倒的に多い。ここが、大物主(八千矛の神)の国であることは明らかであろう。
 銅剣・銅矛・銅戈の奈良県の出土数は。0である。つまり奈良県にある大物主を祭る大神(おおみわ)神社は、田川から遷された結果の神社である。香春岳は、本当に三輪の山であるが、奈良県の三輪山は、一輪の山である。だから不思議なのが、大神神社の鳥居が、三ツ鳥居(三輪鳥居)という形である。
 香春岳が三輪山だとすると峰ごとに神様が祭られていて、それぞれの峰ごとに神社があったが、一輪の山に三輪鳥居の形で3柱の神様を祭る神社になっている。これが、三ツ鳥居(三輪鳥居)という特色になった。

生前の大物主の居所
生石(おふしの)村主(すぐりの)真人(まひと)歌一首
大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經
 大汝少彦名のいましけむ志都の石屋は幾代経にけむ (三五五)
 大汝(おほなむち)少彦名(すくなひこな)の二神がいらっしゃったという、この志都(しつ)石屋(いはや)は幾代の年月を経てきたことだろう。
「香春町鏡山(香春大任バイパス)」
「鏡ヶ池」

 生石(おふしの)村主(すぐりの)真人(まひと)は、『続日本紀』の西暦750年(天平勝宝2年)に記事がある人物である。この時は、桓武天皇が、長岡京に遷都する西暦784年(延暦3年)より以前になるから、生石村主真人は、香春の地にいたのではないかと考えている。
 この万葉集355番歌を詠んだ時にこの「志都(しつ)石屋(いはや)」が何処かをずーっと考えていた。その場所は、香春町鏡山の「鏡乃池」である。

若八幡宮御縁起(田川市夏吉)
地主神 夏磯姫命
「若八幡宮御縁起」

 若八幡宮御縁起にある夏磯姫命は、『日本書紀』景行紀に出てくる神夏磯媛(かむなつそひめ)の事である。上記の万葉集355番歌の中にあった「志都(しつ)の石屋」に関係する地名が縁起の中にある「磯津山」で、発音が同じ「磯津:しつ」である。
 その磯津(しつ)は、古説より鏡山と云えりとある。この鏡山は、当然、香春町の鏡山である。

 志都の石屋が、鏡山の鏡乃池の場所だと思った要因は、この池の少し先に「玉垣様」が祭られていると柳井さんに聞いて、調べたら、『日本書紀』神武紀の中に倭国の古い時代の国名を大己貴大神が玉牆(たまがき)の内つ国と名付けたとある。
 したがって、ここにある小さな石祠に祭られている「玉垣様」は、大己貴大神だと解った。

神武天皇紀の大己貴大神
 復た、大己貴大神(なづ)けて曰はく、「(たま)(がき)の内つ国。」とのたまひき。
 饒速日命、天磐船に乘りて、太虛(おほぞら)を翔り行きて、是の(くに)(おせ)りて(あまくだ)りたまふに及(いた)りて、故、因りて目けて曰はく、「虛空(そら)見つ日本の国」と曰ふ。

香春町鏡山にある「鏡乃池」。
この少し先に「玉垣様」という小さな石祠(せきし)がある。

写真「香春町鏡山の鏡乃池」