「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
香春の神と天皇
(1)大物主の国作り(倭成す大物主)
大物主から香春との関係についてやり直す。『古事記』中では、早くも「大国主の国作り」に作り換えられる。結論から言えば、大国主は、大物主から17代の子孫である。17代もの長い間、香春を中心に続いた王家の最初の祖先である大物主と最後の子孫である大国主を一緒くたにしたのが、実は『古事記』のカラクリである。
しかし『古事記』には、大物主から大国主までの歴史が一応バラバラではあるが、書いてある。ところが、『日本書紀』においては、大物主・大国主の記事は、1/10から1/20に削られる。これが、古事記と日本書紀の神代における一番の違いである。
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久延毘古
山田の曽冨騰
古事記では、大国主が少名毘古那神と一緒に大倭国を作られたという事が書かれていた。ここに出てくる久延毘古というのは、山田の曽冨騰、山田の案山子の事である。
山田いうのは、旧山田市(現嘉麻市)の土地の事である。ここに久延毘古はいた。
『日本書紀』は、西暦720年(養老4年)に編纂され、『古事記』はさらに前、西暦712年(和銅5年)に成立している。が、壬申の乱の後、天武朝になっており天智天皇の業績や豊国の神々の歴史も削られていった。
ここで、既に伊弉諾・伊弉冉の国生みに書き換えられているが「大倭豐秋津嶋」とある。これは、豊前・豊後、つまり豊国の歴史であり、大物主から始まる歴史が、伊弉諾・伊弉冉の国生みの所に移さている。
17代後の大国主と大物主が一緒にされている。これが『古事記』のカラクリである。
香春岳は、三輪山であると同時に天香山・耳成山・畝尾山の倭三山でもある。
天香山
耳成山
畝尾山
昭和十年の香春岳(倭三山)
天香山は、『日本書紀』神代 第七段 一書 第一に「天香山の金を採りて日矛を作らしむ」とあり、また、『先代旧事本紀』巻二 神祇本紀に「採二天香山之銅一使レ図二造日像之鏡一」とあるように金と銅が採れる山である。
香春岳は、金と銅が採れる山であり、写真の自然金を見て、天香山であると決定付けられた。そうした時に『古事記』の一節に「天香山(香春三ノ岳)の畝の尾」とあり、香春一ノ岳が畝尾山になる。「尾」の字を音読みした時に「び」であり、「うねび山」となる。
青銅器(銅剣・銅矛・銅戈)の出土分布を見れば、福岡県の出土数が圧倒的に多い。ここが、大物主(八千矛の神)の国であることは明らかであろう。
銅剣・銅矛・銅戈の奈良県の出土数は。0である。つまり奈良県にある大物主を祭る大神神社は、田川から遷された結果の神社である。香春岳は、本当に三輪の山であるが、奈良県の三輪山は、一輪の山である。だから不思議なのが、大神神社の鳥居が、三ツ鳥居(三輪鳥居)という形である。
香春岳が三輪山だとすると峰ごとに神様が祭られていて、それぞれの峰ごとに神社があったが、一輪の山に三輪鳥居の形で3柱の神様を祭る神社になっている。これが、三ツ鳥居(三輪鳥居)という特色になった。
生石村主真人は、『続日本紀』の西暦750年(天平勝宝2年)に記事がある人物である。この時は、桓武天皇が、長岡京に遷都する西暦784年(延暦3年)より以前になるから、生石村主真人は、香春の地にいたのではないかと考えている。
この万葉集355番歌を詠んだ時にこの「志都の石屋」が何処かをずーっと考えていた。その場所は、香春町鏡山の「鏡乃池」である。
若八幡宮御縁起にある夏磯姫命は、『日本書紀』景行紀に出てくる神夏磯媛の事である。上記の万葉集355番歌の中にあった「志都の石屋」に関係する地名が縁起の中にある「磯津山」で、発音が同じ「磯津:しつ」である。
その磯津山は、古説より鏡山と云えりとある。この鏡山は、当然、香春町の鏡山である。
志都の石屋が、鏡山の鏡乃池の場所だと思った要因は、この池の少し先に「玉垣様」が祭られていると柳井さんに聞いて、調べたら、『日本書紀』神武紀の中に倭国の古い時代の国名を大己貴大神が玉牆の内つ国と名付けたとある。
したがって、ここにある小さな石祠に祭られている「玉垣様」は、大己貴大神だと解った。