「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 香春の神と天皇

※  香春の神と天皇
(令和6年1月6日(土) 香春町郷土史会例会)

(2)素戔烏尊と草薙剣

 『古事記』では、素戔烏尊が八俣遠呂智から取り出した刀が、都牟刈(つむがり)の大刀で、その刀が草那藝(くさなぎ)の劒に変わる。
 この「天照大御神に白し上げき」の一節は、創作・改竄である。天照大御神(=饒速日尊)が、素戔烏尊から取り上げたのが草那藝の劒である。

素戔烏尊(すさのおのみこと)と草薙剣
八俣(やまたの)遠呂智(をろち)退治の真相
 其の八俣遠呂智(まこと)(こと)の如く來て、乃ち船毎に己が頭を垂れ入れ其の酒を飮みき。是に飮み醉ひ留り伏して寢ねき。
 爾くして速須佐之男の命、其の御佩せる十拳の劔を拔きて其の蛇を切り散ししかば、肥の河血に變じて流れき。
 故、其の中の尾を切りし時、御刀の刄(こぼ)れき
 爾くして怪しと思ひて御刀の(さき)を以ちて刺し割りて見れば、都牟(つむ)(がり)の大刀在り。
 故、此の大刀を取りて、異しき物と思ひて、天照大御神に白し上げき。是は(くさ)那藝(なぎ)の劒なり。
(古事記)

 『日本書紀』では、「草薙劒」の読み方が万葉仮名で記されている。

素戔烏尊(すさのおのみこと)と草薙剣
八俣(やまたの)遠呂智(をろち)退治の真相
八俣 yaata
  ↓
八幡 yaata
『草薙劒』、此を倶娑那伎能(くさなぎの)()留伎(るぎ)と云ふ。一書に云ふ。本の名は天叢(あめのむら)(くもの)(つるぎ) 。(けだ)大蛇(おろち)()る上に、常に雲氣(うんき)有り。(かれ)以ちて名づくるか。(やま)()(たけるの)皇子(みこ)に至りて、名を改め草薙劒と曰ふ
(日本書紀 神代第八段)
天村雲尊
  八俣の大蛇一族即ち八幡神の長か
※ 素戔烏尊は最初の八幡神を退治し
 たか!

 素戔烏尊が八俣遠呂智の尾を斬った時に「御刀の刄毀(こぼ)れき」とあるように「草薙劒」は鉄剣である。したがって、弥生時代の中期にすでに遠賀・香春の土地では、鍛造の刀が作られていたという可能性を挙げた。
 これは現在の考古学の世界とは全く合わない。考古学では完全に否定されるが、『古事記』に書かれている。草薙劒の本の名が天叢雲劒であり、素戔烏尊が八俣遠呂智の尾から取り出した刀である。
 素戔烏尊の時代という事は、紀元前でないと文献上合わない。

素戔烏尊(すさのおのみこと)と草薙剣
弥生中期 鉄剣の時代
『草薙劒』一書に云ふ。本の名は天叢雲劒。蓋し大蛇の居る上に、常に雲氣有り。故以ちて名づくるか。
 八俣の大蛇は八剱を所有していたから人間の一族であろう。長江の下流域で人
         頭蛇身の女媧(じょか)という
         神が祭られていた

         この神を祭る一族で
         はなかったか。
絵「女媧」
写真「鉄剣」

 『古事記』に素戔烏尊が、「宮を造作(つく)るべき地を出雲の國に求めき」とある土地は、香春であった。

素戔烏尊(すさのおのみこと)と草薙剣
出雲王朝の成立
 故、是を以ちて其の速須佐之男の命、宮を造作(つく)るべき地を出雲の國に求めき。
 爾くして須賀の地に到り坐して、「吾、此の地に來て、我が御心、すがすがし」と詔りて、其の地に宮を作り坐しき。
 故、其の地は今に云う須賀なり。()
大神、初めて須賀の宮を作りし時、其の地より雲立ち(のぼ)りき。
 爾くして御歌を()みき。其の歌に曰く、
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 
 八重垣作る その八重垣を
(古事記)

*.

 『古事記』『日本書紀』ともに一番最初に出てくる歌謡で、和歌の最初であると紀淑望(きのよしもち)『古今和歌集 真名序(まなじょ)の中で書いてある。

 然れども、神の世七代は、時質に人淳うして、情欲分かつことなく、和歌いまだ作らず。素戔烏尊の出雲の国に到るに逮びて、始めて三十一字の詠あり。今の反歌の作なり。その後天神の孫、海童の女といえども、和歌をもちて情を通ぜずといふことなし。

 出雲の國の須賀の地は、何処か?

宮原金山遺跡と鏡乃池
地図「香春町(宮原金山遺跡と鏡乃池)」
 鏡乃池

 宮原金山遺跡は、国道322号(香春大任バイパス)の工事中に発見された。この遺跡から総重量11tを超える鉄滓類が出土している。

宮原金山遺跡付近の
地質と金属鉱床の分布図
福岡県文化財調査
報告書第245集
写真「宮原金山遺跡」
写真「宮原金山遺の鉱滓」
地図「金属鉱床の分布図」
「鏡ヶ池」
 香春町の「鏡乃池」。この奥に八段に造成された小山があり、「素戔嗚尊の八重垣」即ち「須賀宮」があったようである。

 宮原金山遺跡から東南に約1kmの所に鏡乃池があり、その奥の所を八重垣跡と考えている。

須賀宮(出雲八重垣)跡か
「香春町鏡山(香春大任バイパス)」
八重垣跡か
宮原金山遺跡

 この小山は、8段の段差になっている。ここは、版築(はんちく)という黄河流域で古代から用いられた石灰分を多量に含んだ土を建材を用い強く突き固める方法で、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法が用いられている。この工法は、御所ヶ谷神籠石でも見られる。

須賀宮(出雲八重垣)跡か
「鏡乃池の奥」

 出雲の國というのは、素戔嗚尊の一族が流された現在の島根県ではなく、香春町鏡山の鏡乃池の奥に須賀の宮跡を見つけた。