「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 香春の神と天皇 (その3)

※  香春の神と天皇 (その3)
 (令和6年7月6日(土) 香春町郷土史会例会)

(4)筑紫と豊に2王朝が成立した(兄弟王朝成立)

 『古事記』仲哀記に、「又娶息長帶比賣命是大后。生御子、品夜和氣命。次大鞆和氣命、亦名品陀和氣命。」とあり、『日本書紀』神功紀に「十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。故時人號其産處宇瀰也。」とある。

 記紀では、品陀和氣(ほむだわけ)命(誉田)と誉田(ほむた)天皇の二つが記されている。この「誉田」については、久留米市にある大善寺玉垂宮に伝われる『吉山旧記』に伝承が残されている。

 次に下記の右図に示す『宋史』日本國(王年代紀)の中では、神功皇后ではなく神功天皇と書かれている。そして、ここでも神功天皇は、『古事記』の系図と同様に開化天皇の子孫であると書かれている。さらに息長足姫(おきながたらしひめ)天皇とも書かれている。
 次に應神天皇と書かれているが、その後が問題である。「大臣號紀武内と書かれている。その次が仁徳天皇とある。

 また、熊本菊池の松野家に伝わるのが、下記の左図に示す『松野連(()氏)系図』で、讃・珍・済・興・武と続く倭五王の系図である。その倭五王の先代が系図の最初に書かれている(とう)とあり、この人物こそが『吉山旧記』にある(とう)大臣である。
 そして『宋史』日本國(王年代紀)で問題だあるとした大臣の紀武内が、『吉山旧記』にある大臣に当る。

天皇と紀氏王権の成立
『宋史』日本國(王年代紀)
『宋史』日本伝(王年代紀)
『松野連(()氏)系図』
松野連系図(倭五王の系図)

 したがって、筑紫(筑後)側の倭王、つまり応神天皇(誉田天皇)の父は、紀武内(=大臣)と考えられる。
 『宋史』日本國(王年代紀)は、天皇家の系図が書かれているにも関わらず、「大臣である紀武内」が唯一出てくる。何故か?という謎解きをした。福岡県の東西に二つの王朝が出来たのではないかという結論に至った。

 下記の地図で示すように豊国が、神功天皇-誉田別天皇。筑紫国が、紀武内-倭王誉田天皇)という兄弟王朝の倭国が始まった。
 つまり、福岡県の東側に神功天皇の豊国王朝。西側に武内宿禰が創始した筑紫王朝が成立した。そして、次代が豊国王朝では誉田別天皇、筑紫王朝では誉田天皇(倭王讃)の2人の応神天皇が在位したと考えている。

倭国地図(筑紫国と豊国)

倭国(兄弟王朝)

筑紫国王朝

紀武内-誉田天皇

(縢) (倭王讃)

豊国王朝

神功天皇-誉田別天皇

 ①  筑紫国の応神天皇 = 誉田天皇(倭讃

 高句麗好太王碑と応神紀
 …十四年甲辰、□不軌にして帯方界に侵入す。
寇潰敗し、斬殺無数なり。
 廿五年、百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼。木滿致執國政。與王母相婬、多行無禮。天皇聞而召之。百濟記云「木滿致者、是木羅斤資、討新羅時、娶其國婦、而所生也。以其父功、專於任那。來入我國、往還貴國。承制天朝、執我國政。權重當世。然天朝聞其暴召之。」
高句麗好太王
応神天皇
 高句麗好太王碑と応神紀
 廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰「高麗王教日本國也。」時太子菟道稚郎子其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表
 二十八年
の秋九月に、
高麗の王、
使を遣して
朝貢す。因
りて表上れ
り。其の表
に曰く、「高麗の王、日本國に教ふ」といふ。
 時に太子菟道稚郎子、其の表を讀みて、怒りて、高麗の使を責むるに、表の状の禮無きことを以てして、則ち其の表を破る。
4世紀の朝鮮半島
松野連系図

 『応神紀』二十八年記事に出てくる「太子菟道稚郎子」は、この記事以外に書かれている菟道稚郎子とは、性格(気性)が違い過ぎる。したがって、この記事は、筑紫国側の出来事ではないかと考える。
 筑紫国の誉田天皇(倭讃の皇太子については、『松野連系図』の中に倭五王の系図があり、「」の次は、弟の「」が継いでいるが、子に「」という人物の名が残されている。
 『応神紀』には、筑紫国の倭讃の皇太子「の記事が、入れ込んで書かれていると考えられる。

 ②  豊国の応神天皇 = 誉田別天皇

 誉田別天皇(豊国)
 三年冬十月辛未朔癸酉、東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷、而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不命。訕哤、此云佐麼賣玖則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤。因爲海人之宰。故俗人諺曰、佐麼阿摩者、其是緑也。
 六年春二月、天皇幸近江國、至菟道野上、而歌之曰、  
 知麼能 伽豆怒塢彌例
麼 茂々智儾蘆 夜珥波
母彌喩 區珥能朋母彌喩
 七年秋九月、高麗人・百濟人・任那人・新羅人、並來朝。時命武內宿禰、領諸韓人等池。因以、名池號韓人池
香春町・香春岳周辺

 この『応神紀』七年秋九月記事にある「韓人池」が、香春岳の西側、香春町の五徳にある。

 誉田別天皇(豊国)
 十四年春二月、百濟王貢縫衣工女。曰眞毛津。是今來目衣縫之始祖也。
 卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令縫工女。爰阿知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則至高麗、更不道路。乞道者於高麗。高麗王乃副久禮波・久禮志、二人、爲導者。由是、得吳。吳王、於是、與工女兄媛弟媛吳織穴織、四婦女
 卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮。時年一百一十歲。一云、崩于大隅宮是月、阿知使主等、自吳至筑紫。時胸形大神、有工女等。故以兄媛於胸形大神。是則今在筑紫國、御使君之祖也。既而率其三婦女、以至津國、及于武庫、而天皇崩之。不及。卽獻于大鷦鷯尊。是女人等之後、今吳衣縫・蚊屋衣縫是也。
『日本書紀 』応神紀

 『応神紀』十四年・三十七年・四十一年記事に書かれている「四人の縫衣工女の一人、吳織」の墓(呉媛の墓)が、香春町にある。また、兄媛を祀る神社が福津市奴山に鎮座する縫殿神社である。

 誉田別天皇(豊国)
 十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以阿直岐掌飼。故號其養馬之處、曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典。卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者。是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
 十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子。師之、習諸典籍於王仁。莫通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇召直支王謂之曰「汝返於國以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也。
 十六年の春二月に、王仁來る。則
太子菟道稚郎子、師としたまふ。
諸典籍を王仁に習ひたまふ。通達せ
ざるは莫し。所謂王仁は、是書首等
の始祖なり。
王仁

 豊国の誉田別天皇の皇太子である菟道稚郎子は、百済からやって来た王仁を師として諸典籍を習った後の宇治天皇(真実の仁徳天皇)である。

 誉田別天皇(豊国)
 十九年冬十月戊戌朔、幸吉野宮。時國樔人來朝之。因以醴酒、獻于天皇、而歌之曰、
 伽辭能輔珥 豫區周塢菟區利 豫區周珥 伽綿蘆淤朋瀰枳 宇摩羅珥 枳虛之茂知塢勢 磨呂俄智
 歌之既訖、則打口以仰咲。今國樔獻土毛之日、歌訖卽擊口仰咲者、蓋上古之遣則也。夫國樔者、其爲人甚淳朴也。毎取山菓食。亦煮蝦蟆上味。名曰毛瀰。其土自東南之、隔山而居于吉野河
。峯嶮谷深
、道路狹巘。
故雖
、本希
。然自
之後、屢參赴以
土毛。其土
毛者、栗・菌及
年魚之類焉。

 「吉野宮」が『応神紀』十九年記事に最初に出てくる。この吉野宮は、京の東南の地にあり、山が険しく、また、吉野川の辺にあると書かれている事から田川から東南、英彦山を越えた大分県中津市山国町吉野だと気が付いた。そこには若宮神社がある。ここは、『斉明紀』に書かれているが、天智天皇が造られた吉野宮だと考えている。
 『応神紀』の吉野宮は、若宮神社より少し下った所に小野という地名があり、そのには菅原神社がある。ここが『応神紀』の吉野宮かも知れない。あくまでも推測である。

 『応神紀』の「吉野宮」については、「豊国の万葉集⑨ 山部赤人編」(令和5年5月18日)を参考にしました。