「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
千手氏と天智天皇 ― 嘉穂郡誌と日本書紀 ―
神武天皇の時代から約7・80年後の現われたのが、『魏志倭人伝』に書かれた邪馬臺国の女王卑弥呼である。卑弥呼は、西暦200年頃に即位し約45年以上もの長きに女王位にあった。その卑弥呼が、正始八年(247)がその翌年に亡くなっている。
卑弥呼が亡くなった時の記録が『魏志倭人伝』によれば、その墓は、「殉葬した奴婢が百余人」の殉葬の墓であると記録されている。
次が過去に西日本新聞に寄稿した『新説日本書紀』の垂仁天皇の中で紹介した日本書紀の「殉葬墓」の記録である。
上記の写真が、7・8年前に発表した田川郡赤村の平成筑豊鉄道の内田駅の西隣にある全長450m、日本第2位の大きさの前方後円墳跡である。卑弥呼の墓は「徑百餘歩」、メートル法の換算で140〜150mとあり、この後円部の直径が150mである。また、この前方後円墳からは、埴輪が出土していない。だから、殉葬墓ではないかと考えている。
したがって、埴輪が出土している奈良県桜井市箸中の箸墓古墳が、卑弥呼の墓である訳がない。この 赤村内田の前方後円墳が本物の卑弥呼の墓(箸墓)であると考えている。
*1
*1
上記の「出雲国」は、桂川町に隣接する飯塚市平塚にある国道200号線の出雲交差点周辺と考えている。
桂川町土師 にある長明寺の縁起の中に「野見の姓を改め土師 の姓を・・・」と書かれている。上記の垂仁紀に出てきた「皇后日葉酢媛」の語句も見える。
『嘉穂郡誌』の中に「長明寺」の記事があり、その由来に野見宿禰が出てくる。ここに出雲の国司とある国は、飯塚市平塚・桂川町土師周辺の国である。
「十四世の孫野見宿禰まで相続して土師村に居た」とあるから紀元前・神代から続いた子孫である。その野見の姓が、土師の姓に変わる。その土師の姓が、更に菅原の姓に変わる。菅原道真公の先祖は、ここ桂川町の出身であり、野見宿禰の子孫である。
(参考)
土師の姓が、菅原の姓に変わる説明は、 平城京の中心(長明寺) のページにあります。