「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 千手氏と天智天皇  ― 嘉穂郡誌と日本書紀 ―

 千手氏と天智天皇  ― 嘉穂郡誌と日本書紀 ―
(令和6年2月26日(月) 於:千手寺)

(2)埴輪の発祥の地は、桂川町の土師(はじ)

 神武天皇の時代から約7・80年後の現われたのが、『魏志倭人伝』に書かれた邪馬臺(やまと)国の女王卑弥呼である。卑弥呼は、西暦200年頃に即位し約45年以上もの長きに女王位にあった。その卑弥呼が、正始八年(247)がその翌年に亡くなっている。

 卑弥呼が亡くなった時の記録が『魏志倭人伝』によれば、その墓は、「殉葬(じゅんそう)した奴婢(ぬひ)が百余人」の殉葬の墓であると記録されている。
 次が過去に西日本新聞に寄稿した『新説日本書紀(やまとのふみ)』の垂仁天皇の中で紹介した日本書紀の「殉葬墓」の記録である。

邪馬臺(やまと)国の女王  卑弥呼の死
正始八年(247)
 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。
(魏志倭人伝)
 239年、天皇の弟の倭彦(やまとひこの)(みこと)が死んだ。この時、「近習の者を集め、すべて生きたまま陵の周囲に埋めて立てた」とある。日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声をあげて泣いた。ついに死ぬと、遺体が腐り、犬や烏が集まって遺体を食べた。天皇は、これを悲しみ、以後殉葬を止めよと言った。
 魏志倭人伝に卑弥呼の墓が記され、「殉葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり」とある。垂仁紀の記事がこれに該当することは明ら
かである。

赤村内田にある
「巨大な前方後円墳」

「赤村内田の前方後円墳型地形」

 上記の写真が、7・8年前に発表した田川郡赤村の平成筑豊鉄道の内田駅の西隣にある全長450m、日本第2位の大きさの前方後円墳跡である。卑弥呼の墓は「徑百餘歩」、メートル法の換算で140〜150mとあり、この後円部の直径が150mである。また、この前方後円墳からは、埴輪が出土していない。だから、殉葬墓ではないかと考えている。
 したがって、埴輪が出土している奈良県桜井市箸中の箸墓古墳が、卑弥呼の墓である訳がない。この 赤村内田の前方後円墳が本物の卑弥呼の墓(箸墓であると考えている。

 『日本書紀』垂仁天皇紀には、「殉葬墓」の記録に続き下記の記録がある。この垂仁天皇の時代から「埴輪」が立てられるようになった。

垂仁天皇と埴輪
 241年、皇后日葉酢(ひばす)(ひめの)(みこと)が死んだ。天皇は殉葬を止めようとして群臣に相談する。野見宿祢が良策を思いつく。彼は使者を派遣し、出雲国の土部(はじべ)百人を呼び寄せた。自ら指揮して、粘土を取って人・馬やいろいろな物の形を造って、天皇に献上して申し上げた。「今後、この土物(はに)を生きた人に換えて(みささぎ)に立て、後の世のしきたりとなさいませ」。
 天皇は喜び、その土物を日葉酢媛命の墓に立てた。この土物を埴輪といった。天皇は「以後、陵墓に必ずこの土物を立て、人を傷つけてはならない」と命じた。野見宿祢の手柄を褒め、陶器を造る土地を与え、土部(はじ)の職につけた。それで、野見宿祢を()(じの)(おみ)といった。
 埴輪の起源の話である。埴輪を最初に造った土地こそ「桂川町の土師」であろう。私はそれを疑わない。古墳と埴輪の取り合わせは、筑豊の地に発祥したのである。

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 上記の「出雲国」は、桂川町に隣接する飯塚市平塚にある国道200号線の出雲交差点周辺と考えている。

 垂仁天皇の菅原伏見陵を嘉麻市漆生(うるしお)にある沖出古墳と考えている根拠は、漆生の南に隣接する牛隈(うしくま)(旧牛隈村)に「菅原」という小字が残っている。

垂仁天皇の「菅原伏見陵」か⁉
「嘉麻市漆生(うるしお)の沖出古墳」

沖出古墳(嘉麻市漆生)

『村名小字名調書』嘉穂郡(嘉麻・穂波編)(抜粋)

 

郡 區

町 村

小字名

小字名

小字名

小字名

小字名

筑前国

嘉麻郡

牛隈(うしくま)

貴舟坂(きふねさか)

下岡元(しもおかもと)

足町(あしまち)

岡元(おかもと)

からはけ( )

嘉穂町

塚田(つかだ)

古賀(こが)

(かみ)かんにう

九々町(くくまち)

菅原(すけはら)

中家(なかえ)

(なか)(もん)

上九々町(かみくくまち)

上長(かみなが)

(かき)(つる)

 桂川町土師(はじ) にある長明寺の縁起の中に「野見(かばね)を改め土師(はじ) の姓を・・・」と書かれている。上記の垂仁紀に出てきた「皇后日葉酢(ひばす)(ひめ)」の語句も見える。

長明寺縁起(桂川町土師(はじ)
画像「長明寺縁起」

 『嘉穂郡誌』の中に「長明寺」の記事があり、その由来に野見宿禰が出てくる。ここに出雲の国司とある国は、飯塚市平塚・桂川町土師周辺の国である。
 「十四世の孫野見宿禰まで相続して土師村に居た」とあるから紀元前・神代から続いた子孫である。その野見の姓が、土師の姓に変わる。その土師の姓が、更に菅原の姓に変わる。菅原道真公の先祖は、ここ桂川町の出身であり、野見宿禰の子孫である。

『嘉穂郡誌』長明寺
由 緒
 開基祐西は本願寺第八代蓮如上人弟子なり、明應八年御下賜の御染筆六字尊號あり、又上人の葬儀に参列し分與を受けし上人の御舎利あり。
          (嘉穂郡寺院明細帳)
 長明寺は浦田にあり、遍照山攝取院と號す眞宗西派本山京都本願寺末也。((初めは西京佛照寺に属せしと云ふ) 文明八年丙申祐西と云僧開基す、正徳四年寺號木佛を許さる。
            (筑前續風土記)
長明寺の由來
 抑筑之前州穂波郡土師村遍照山長明寺開基祐西は、地神第一天照大神宮第二の皇子天穂日命の苗裔也、此天穂日命は神勅により出雲の國司となり下り給ひ、子々孫々當國の司たり、十四世の孫野見宿禰まで相續して彼國に居れり、
(中畧)
『嘉穂郡誌』長明寺
 會孫土師の連淸氏は人皇十五代の帝神功皇后に仕へて、三韓征伐の時にも隨ひ奉り、彼地にて數度の軍功ありければ、歸朝の後穂波郡大分村にて諸軍勢を分ち國々に歸し給ふに、淸氏が軍功を賞し給ひ、弟淸友を京都に供奉せしめ給ひ、淸氏には八千町の地を給ひ、此國に居て勞を休んずべしと勅を蒙り、帝に別れ奉り、後穂波郡を彼方此方と居住の地を撰り、此里勝れて氣に恊ひ、面白きとて居室を構へ、妻子を呼迎えて武威日々に榮へ、仁徳夜々に濕ひければ、里人恭ひ尊ひ土師殿と稱し、後は土師の連と云ふを以て土師村を里の名とし、懐きかしつきれば、淸氏も悅び土師の姓則ち里を保つしるしなればとて、氏を保里と定め、保里の連土師淸氏とぞ名乗けり。
(中略)

(参考)

 土師の姓が、菅原の姓に変わる説明は、 平城京の中心(長明寺) のページにあります。