倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
               記紀万葉研究家  福永晋三

    

 豊の国万葉集③ 山上憶良
(令和4年11月23日 於:小倉城庭園研修室)

 「万葉集」巻第五 804番・805番  
         (老いや死は避けられない。得策かと亡命者へ呼びかけた歌)

 養老4年((720年))  大伴旅人、征隼人持節大将軍となり、大隅・日向の隼人を全滅 

 細男舞(くわしおのまい)・神相撲の縁起
 元正天皇の御宇
 養老三年((719年))、大隅・日向の隼人族が皇命に従わず七城を築いて叛乱を起こした。
 その時、官軍・宇佐の神軍とともに(おき)(なが)大神宮も神人・社家・村里次官を引きつれて行き七城を囲んだ。
 神力により五城は落とすことができたが、二城はどうしても伐つことができない。
 豊前の国司は息長大神宮に祈らせ神告を得た。
 神告のとおり美女・美童の形を表す御神像を造り、戦場において 伎楽(ぎがく)を奏し、寇賊のこころをとろかし、疲れていた官軍の士気を奮い起し、ついに二城の敵を誅つことができた。

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 伎楽(ぎがく):古代に中国の呉国から日本に伝来した仮面を用いた無言の野外劇である。

 細男舞(くわしおのまい)は、福岡県築上郡吉富町にある八幡古表(こひょう)神社で奉納される傀儡子(くぐつし)(木彫りの人形)を操って行われる神舞と神相撲の複合行事である。
 傀儡子(くぐつし)の語源は中国語の「傀儡(かいらい)」で、「あやつり人形」を意味する。

「八幡古表神社」
「八幡古表神社(乾衣祭)」

乾衣祭(おいろかし)
 八幡古表神社で執り行われる神事「細男舞・神相撲」の御神像に着せる着物(神衣)を年に一度虫干しする行事である。

「隼人討伐」
 (すべか)らく三年を限つて、衆の賊を守り殺すべき由、謀り給へ。神(われ)此の間に相助けて、荒振(あらふる)奴等を(ばつ)り殺さしめんてへり。
 時に将軍等、神道の教命を()けしめ、蜂起せる隼人を(ばつ)り殺し(おわん)ぬ。
           (『託宣集』)

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 大宰府から朝廷に隼人蜂起の一報がもたらされたのは、養老4年((720年))のことでした。
 「託宣集」は「公家此の凶族を降伏せしめんがため、宇佐宮に祈り申される」と書いていて僧・法蓮が命を受けたのでは菊池展明(のぶあき)氏は考えています。

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 大伴旅人が率いる大和朝廷軍と宇佐神宮の禰宜(ねぎ)辛嶋波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐の神軍が、中津の薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った薦枕を神体にして、神輿(しんよ)に乗せ、隼人の地に向かい、鎮圧したと伝わる。 

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 託宣集:『八幡宇佐宮御託宣集』は、宇佐神宮の縁起書。

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 法蓮(ほうれん): 宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当。英彦山や国東六郷満山で修行したという修験者的な人物でもある。

 細男舞(くわしおのまい)・神相撲の縁起
 聖武天皇の御宇
 平十六年((744年))隼人の霊を慰めるため宇佐神宮が中心となって豊の国の大放生会(ほうじょうえ)を執行した。
 国司が息長(おきなが)大神宮の神官に言うには「隼人降伏のとき、戦場に伎楽(ぎがく)を奏す。今また古を表す木造を彫りて・・・・」御神像を広津崎より船に乗せ和間(わま)海上に到り放生会に参加、細男(くわしお)伎楽(ぎがく)を奏した。
 すこぶる古の形を表すものであった故その後古表大明神と称し、別宮を建てて奉祀した。
 以来、宇佐放生会の際には出御して参加していたが八幡古表宮独自でも行うようになり今日に到ったのである。
 細男舞(くわしおのまい)・神相撲の縁起

 古要(こよう)神社(中津市伊藤田)

「古要神社」
 大隅日向の隼人族が、大陸(新羅)からの援助を得て数十万の軍兵となり、大和朝廷に叛いた。
 隼人討伐後、怨恨の祟りが各地にあり、天平16年((744年))8月、最初の放生会を仮宮(和間の浮殿)で行なった。

 和間(わま)神社(浮殿、八幡大神の神名がある)「明治二十三年宇佐郡神社明細牒」

「古要神社」

 放生会の始まり

 1年半におよぶ隼人の乱の後、宇佐地方では疫病や凶作などが起こり、隼人の祟りと恐れられる。「八幡神」の託宣により「放生会」が行なわれる。
 香春・採銅所で造られた銅鏡(銅鏡に火明(ほあかり)命が降臨)が豊日別宮(官幣大社)に送られ、諸社を神幸しながら、宇佐の和間神社・浮殿に納められ、宇佐神宮へと向かう。

 古宮八幡神社(香春町採銅所)・・・最初は、豊比咩命のみ祀る

「古要神社」