倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
               記紀万葉研究家  福永晋三

    

 豊の国万葉集③ 山上憶良
(令和4年11月23日 於:小倉城庭園研修室)

 「 嘉麻3部作(惑へる情を反さしむる歌) 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第五 800番・801番  (「山澤に亡命する民」とは何処の誰か?)

 万葉集において、山上憶良が筑前國守の時に作られた「嘉摩(かま)三部作」と云われる歌に入る。その一番目が、800番歌の「(まど)へる(こころ)(かへ)さしむる歌一首」である。
 最初に序文がある。その中に「山澤に亡命する民」とある。これが、何か?

 (まど)へる(こころ)(かへ)さしむる歌一首 
          序を幷せたり
 令或情謌一首 并序
 或有人。知父母、忘於侍養、不妻子、軽於脱屣。自称倍俗先生。意氣雖青雲之上、身體猶在塵俗之中。未修行得道之聖、蓋是亡命山澤之民。所以指示三綱、更開五教、遣之以謌、令其或 。歌曰
 或有人(あるひと)、父母を敬ふことを知れれども侍養を忘れ、妻子を顧みずして、脱屣(だっし)よりも(あなづ)れり。自ら倍俗先生と()ふ。意氣は青雲の上に揚ると雖も、身體は猶し塵俗の中に在り。修行得道の聖に(しるし)あら()(けだ)し是山澤(さんたく)に亡命する民ならむ。 所以(そゑに)三綱(さんかう)を指示し、更に五教を開き、(おく)るに歌を以ちてして、其の(まどひ)(かへ)さしむ。歌に曰はく、

*1

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 脱屣:履物をぬぎ捨てること。転じて、未練なく物を捨て去ること。

 『続日本紀』の中に「山沢に亡命し」と記事がある。この亡命という言葉は、現在と同じで政治的弾圧や思想・宗教・民族などの相違を理由に、迫害を受けている者がその土地から逃亡することである。
 この場合は、「山澤(山沢)に亡命」している。そして、この時に山上憶良は、筑前国守として嘉麻の土地にいるから、この嘉麻の地から山沢に亡命している人々がいる。
 題詞は、その亡命している人たちに向かって、元に戻させる歌だとある。『続日本紀』の内容は、亡命してから100日経過しても自首してこなければ、絞首刑という事である。

「山澤に亡命する民」 (続日本紀)
慶雲四年((七〇七年))七月
元明天皇即位の宣明(せんめい)、大赦条

*2

山沢に亡命し、軍器挟藏(きょうぞう)して、百日首せずんば、罪を復すること初めの如くす。」
 絞首刑
和銅元年((七〇八年))正月
元明天皇の和銅改元の宣明(せんめい)、大赦条

*2

*4

山沢に亡命し、禁書を挟藏して、百日首せずんば、罪を復すること初めの如くす。」
養老元年((七一七年))十一月
元正天皇の養老改元の宣命(せんみょう)

*3

山沢に亡命し、兵器を藏禁して、百日首せずんば、罪を復すること初めの如くす。」

*2

 宣明:宣言して明らかにすること。

*3

 宣命:天皇の勅命を宣すること。

 800番歌の序文にある「山澤に亡命」と『続日本紀』に出てくる「山沢に亡命」が共通していることを東京の「多元的古代研究会」におられた富永長三氏が最初に気が付かれ唱えられた。その事に大変驚いて詳しく調べ直した。

*4

 禁書と『日本書紀』の成立(養老4年(720年))が関わっている。
(福永説):豊国の史書が手に入り、『古事記』『日本書紀』が成立したことが見えてくる。憶良、60歳の時である。この年に「大伴旅人が征隼人持節大将軍となり、大隅・日向の隼人全滅。」させた年でもある。

 さらに、元正天皇の養老改元の宣命には、「山沢に亡命し、禁書を挟藏して」とある。この「禁書」とは、どのような物でしょうか?
 この時の元明天皇は天武朝の天皇であり、その天皇にとり都合の悪い書物(禁書)とはどのような書物ですか?
 天智朝から天武朝に王権が変わった後の時代であるから豊国(倭国東朝)の歴史書・史書とかの類いでしょうか? つまり、筑紫君薩野馬(後の天武天皇)の王朝では、筑紫国の事が中心であるから豊国の事は色々な意味(文化的にも)で消されていく。だから、豊国の記録が天武朝の天皇である元明天皇にとっては、タブー(taboo)の書であった。
 和銅改元の宣明は、「これらの禁書を早く出せ」という命令である。筑前守の山上憶良が嘉麻に居た時の「山沢」とは、何処の山に逃げ込んだのであろうか? この「山沢」に亡命した者が、何故、豊国の歴史書等を所有しているのか謎である。

 次の元正天皇の養老改元の宣命にも「山沢に亡命し、兵器を藏禁して」と命令がつづく。この事が正史である『続日本紀』からもわかる。

「山澤に亡命する民」 (飛鳥浄御原令)
賊盗律4
 凡そ謀叛れば、絞。已に上道せらば、皆斬。謂はく、協同して謀計れば、乃ち坐せよ。駆率せられたる者をばいはず。余の条の駆率せられむも、此に準へよ。子は中流。若し部衆十人以上を率ゐたらば、父子は遠流に配せよ。率ゐたる所、十人に満たずと雖も、故を以て害為せらば、十人以上を以
て論ぜよ。害と謂
ふは、攻め撃ち虜
掠する所有るをい
ふ。即ち山沢に亡
命して、追喚に従
はずは、謀叛を以
て論ぜよ。
其れ将
吏に抗拒へらば、
已に上道せるを以
て論ぜよ。
「🄫第二回ひこさん山伏の里探訪」

©第二回ひこさん山伏の里探訪

 また、『飛鳥浄御原令』の賊盗律4の中にも「山沢に亡命して」の一句がある。これは、謀反(ゲリラ戦)を起こしている者を取り締まる令である。
 この謀反が、何処で起こっているのか? 筑前守である山上憶良がいる近い場所で謀反が起こっている。その「山沢」の場所は、英彦山だと思われる。この写真で示したような修験道の山伏がそもそも軍隊である。元明天皇・元正天皇の朝廷にこの山伏が謀反を起こしていると考えている。

 山上憶良の「嘉摩三部作」の最初の800番「(まど)へる(こころ)(かへ)さしむる歌」は、「山沢に亡命」して「謀反を起こしている者に対して迷っている心を元に戻させる」という意味の歌である。

 (まど)へる(こころ)(かへ)さしむる歌一首 
          序を幷せたり
 父母乎 美礼婆多布斗斯 妻子見礼婆 米具斯宇都久志 余能奈迦波 加久叙許等和理 母智騰利乃 可可良波志母与 由久弊斯良祢婆 宇既具都遠 奴伎都流其等久 布美奴伎提 由久智布比等波 伊波紀欲利 奈利提志比等迦 奈何名能良佐祢 阿米弊由迦婆 奈何麻尓麻尓 都智奈良婆 大王伊摩周 許能提羅周 日月能斯多波 雨麻久毛能 牟迦夫周伎波美 多尓具久能 佐和多流伎波美 企許斯遠周 久尓能麻保良叙 可尓迦久尒 保志伎麻尓麻尓 斯可尒波阿羅慈迦

800

 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世間は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか
 (まど)へる(こころ)(かへ)さしむる歌一首 
          序を幷せたり
 父母を見れば貴く、妻子を見れば可愛くいとしい。この世のこれが当然のことわりぞ。もちにかかったもち鳥のように離れがたい。行く末がどうなるか分からないのに、穴の空いたくつを脱ぎ捨てるように安易に行ってしまう(死ぬような)人は、情を持たない岩や木から出来た人なのか。君の名は何という。天界に行ってしまえば君の思いのままかも知れない。が、この地上は大君がいらっしゃって照り輝く国ぞ。日月のもと、天雲のたなびく果て、ヒキガエルが渡って行く先まで、大君がお治めになっている素晴らしい国ぞ。天界に行くよりも、こんなわけで、ここに留まるのが道理というものではないか。

 解釈の中で記した「天界」というのは、序文で説明してきた「山沢」の事である。亡命している山沢にいるよりは、天皇が治めている所に戻ってくるように呼びかけている。
 ハッキリ言って「山澤に亡命する民に無駄な抵抗を止めて投降しなさい」と呼びかけてる歌である。

 (まど)へる(こころ)(かへ)さしむる歌一首 
          序を幷せたり
 反謌
 比佐迦多能 阿麻遅波等保斯 奈保〃〃尓 伊弊尓可弊利提 奈利乎斯麻佐尒

801

 ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に帰りて (なり)()まさに
 ひさかたの天道は遠い。すなおに家にお帰りになって(お子さんの面倒等)家事にいそしんで下さい。

 筑豊本線
(福北ゆたか線)の
 天道駅

「筑豊本線(福北ゆたか線)の天道駅」

 反歌の801番歌も優しい呼びかけとなっているが、要するに「山澤に亡命する民に無駄な抵抗を止めて投降しなさい」と云っている歌である。

 ここに載せた写真「天道駅(飯塚市天道)」は、筑前守の山上憶良がいた場所からは近い。「山澤(英彦山)に亡命した民」の中には、この辺りの出身者も多くいたのであろう。だから、この歌にある「天道(あまぢ)」は、地名の「天道(てんとう)」ではないかと。歌に「家に帰ってこい」と詠われているから「神功皇后紀を読む会」の一人が言ってきたように地名と考えた。それで、ここの「天道駅」の写真を載せた。これは少し恣意ではあるが。