倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
               記紀万葉研究家  福永晋三

    

 豊の国万葉集③ 山上憶良
(令和4年11月23日 於:小倉城庭園研修室)

 「 哀世間難住歌 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第五 804番・805番  
         (老いや死は避けられない。得策かと亡命者へ呼びかけた歌)

 804番・805番歌が、山上憶良の「嘉摩(かま)三部作」の3作目「世間(よのなか)(とどま)(がた)きを(かな)しびたる歌一首」である。
 この歌にある「序文」の意味はまだ解き明かしていないのでここでは、載せていません。

 世間(よのなか)(とどま)(がた)きを(かな)しびたる歌一首 
            序を幷せたり
 哀世間難一レ住謌一首 并序
 世間能 周弊奈伎物能波 年月波 奈何流〃其等斯 等利都〃伎 意比久留母能波 毛〃久佐尒 勢米余利伎多流 遠等咩良何 遠等咩佐備周等 可羅多麻尒 多母等尒麻可志〔或有此句云、之路多倍乃 袖布利可伴之 久礼奈為乃 阿可毛須蘇咩伎〕 余知古良等 手多豆佐波利提 阿蘇比家武 等伎能佐迦利乎 等〃尾迦祢 周具斯野利都礼 美奈乃和多 迦具漏伎可美尓 伊都乃麻可 斯毛乃布利家武 久礼奈為能〔一云、尒能保奈須〕 意母提乃宇倍尒 伊豆久由可 斯和何伎多利斯〔一云、都祢奈利之 恵麻比麻欲咩伎 散久伴奈能 宇都呂比尒家利 余乃奈可伴 可久乃未奈良之〕 麻周羅遠乃 遠刀古佐備周等 都流伎多智 許志尓刀利波枳 佐都由美乎 多尓伎利物知提 阿迦胡麻尒 志都久良宇知意伎 波比能利提 阿蘇比阿留伎斯 余乃奈迦野 都祢尒阿利家

802

 世間(よのなか)(とどま)(がた)きを(かな)しびたる歌一首 
            序を幷せたり
留 遠等咩良何 佐那周伊多斗乎 意斯比良伎 伊多度利与利提 麻多麻提乃 多麻提佐斯迦閇 佐祢斯欲能 伊久陀母阿羅祢婆 多都可豆慧 許志尒多何祢提 可由既婆 比等尒伊等波延 可久由既婆 比等尒𨒛久麻延 意余斯遠波 迦久能尾奈良志 多麻枳波流 伊能知遠志家騰 世武周弊母奈新
 世間(よのなか)の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に 迫め寄り来る 娘子(をとめ)らが 娘子さびすと 唐玉(からたま)()(もと)に巻かし 〔白妙の 袖振り()はし (くれなゐ)の 赤裳裾引き〕 よち子らと 手携(てたづさは)はりて 遊びけむ 時の盛りを (とど)みかね ()ぐしやりつれ (みな)(わた) か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の 〔()のほなす〕 (おもて)の上に いづくゆか (しわ)(きた)りし 〔常なりし 笑まひ眉引き 咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし〕 ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取
 世間(よのなか)(とどま)(がた)きを(かな)しびたる歌一首 
            序を幷せたり
()き さつ弓を 手握(たにぎ)り持ちて 赤駒に 倭文(しつ)鞍うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし 世間や 常にありける 娘子らが さ寝す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて 真玉手(またまで)の 玉手さし()へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖(たつかづゑ) 腰にたがねて か行けば 人に(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ ()よし()は かくのみならし たまきはる 命惜しけど ()むすべもなし
 世の中の何ともならないものは、年月は流れゆき、つれて種々の変化がが押し寄せてくることである。娘子(をとめ)が娘子らしく外国製の玉を手首に巻いて(あるいは真っ白な袖を振り交わし、真っ赤な裳すそをひきずって)、同年輩の子らと手を携えて遊んでいた娘子たちも、時の盛りを留めかね、やり過ごしてしまうと、タニシの腸のように黒かった髪の毛も、いつの間にか白髪がまじりくる。ほの紅かった顔にはいつの頃からか(しわ)が寄ってくる。変わりなく見えた笑顔で眉を引いていたのも、咲く花が散っていくよ
 世間(よのなか)(とどま)(がた)きを(かな)しびたる歌一首 
            序を幷せたり
ようになる。世の中というのはこんなものなのだろう。男らしく剣太刀(つるぎたち)を腰に帯び、狩りの弓を手に握りしめ、倭文(しつ)織りの布を敷いた馬の鞍に這いまたがって遊び歩いた世の中もいつまで続いただろう。娘子たちが寝ている板戸を押し開き、探り寄せて手を交わし合い、共寝した夜はいくらもないのに、いつのまにか杖を握りしめて、腰にあてがい、とぼとぼ行けば、人に厭われ、よぼよぼ歩めば人に嫌われる。老いれば人はこんなものらしい。命は惜しいけれど、止める手だてはない。
 反謌
 等伎波奈周 迦久斯母何母等 意母閇騰母 余能許等奈礼婆 等登尾可祢都母

805

 常磐(ときは)なす かくしもがもと 思へども 世の事なれば 留みかねつも

 冒頭の序文にもあったように「人の死は避けられない」事が詠まれていて、山上憶良は、儒教や仏教に対する造詣が深い。

 世間(よのなか)(とどま)(がた)きを(かな)しびたる歌一首 
            序を幷せたり
 岩のように永遠不変でありたいと思っても(老いや死)は世の常、留めようがない。
 神龜五年七月廿一日於嘉摩郡撰定。筑前國守山上憶良
「嘉摩(かま)三部作の碑」

嘉摩(かま)三部作(反歌三首)」碑(嘉麻市鴨生公園)

 反歌でも「老いや死は、世の常であり、留めようが無い」と詠まれている。その死を留めようも無い世の中で、「頑なに山澤の亡命」して時の朝廷に逆らって生きることが得策かと呼びかけた歌である。

 「嘉摩三部作」は、徹底して「山澤に亡命する民」に自首(投降)を呼びかけようとした歌である。これらの歌が、山上憶良の神龜五年七月廿一日に嘉摩郡で選定した歌である。
 写真は、嘉麻市の鴨生公園内にある「嘉摩三部作」の碑であり、そこに801・803・805番の反歌三首が刻まれている。

 「嘉摩三部作」における「山澤に亡命する民」というのは、英彦山に亡命した者(山伏たち)であり、何故その地で抵抗を続けているのか? 
 その原因は、元正天皇の御世、養老4年(西暦720年)に「大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、大隅・日向の隼人を全滅」させた事件にあったと思われる。
 それは、英彦山に亡命した者(山伏たち)の信仰対象と大隅・日向の隼人たちの信仰対象とが、同じだったようである。英彦山の中岳は、瀬織津姫(大祓の神)が祀られている。そして、隼人たちも瀬織津姫を信仰していたようである。
 英彦山の亡命した者たちは、天武朝の元正天皇の朝廷によって、隼人たちが全滅にあった事が許せなかったので、謀反を起こしたという事が見えてきた。