倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第一 50・51番、52・53番 (二つの藤原京が詠まれている)
「幸二于伊勢國一時、留レ京柿本朝臣人麻呂作歌」から天智天皇に仕えた柿本人麻呂が、留まった京を考える。その京から天智天皇が伊勢國に行幸されている。その伊勢國は、苅田町辺りであろうという事は、40〜44番歌のページで説明した。
50番歌の「藤原宮之役民作歌」の左注には、「朱鳥七年癸巳」とあり、この西暦692年は持統天皇の時代に当り、天智天皇に仕えた柿本人麻呂が、留まった京は、この藤原宮ではない。
50
この50番歌で詠まれている宮を造営した土地について考察する。
福永説は、「高天原」は英彦山。「石走る淡海の国」は、古遠賀湾。「八十氏河」は、金辺川であるから英彦山が見える土地。古遠賀湾に面して、また金辺川が流れている処に京を造営している。
また、この50番歌で詠われている中身は、宇治天皇(真実の仁徳天皇)の時、仁徳紀に書かれている「十年冬十月、甫科二課役一、以構二造宮室一。於是、百姓之不レ領、而扶レ老携レ幼、運レ材負レ簣。不レ問二日夜一、竭レ力競作。」の記事がモチーフであると考えている。
次の51番歌の題詞には、天智天皇の皇子である志貴皇子の歌に「明日香宮より藤原宮へ遷った後」とある。この明日香宮は、香春町にあった宇治宮であろう。
その宇治宮については、日本書紀の仁徳紀に「既而興二宮室於菟道一而居之。」と天智紀の「四年冬十月己亥朔己酉、大閲二于菟道一。」と出てくる。この宮は、金辺川沿いにあり、天智天皇が伊勢國(苅田町)へ行幸された時に柿本人麻呂が、残った宮はこの宇治宮である。
志貴皇子は、下記の地図に示すように香春町(明日香宮)から行橋市の福原長者遺跡(藤原宮)へ遷った後に詠まれた歌である。
52番、53番に、「藤原宮の御井の歌」がある。
52
53
歌にある「埴安の池」は、奈良県にある天香具山の麓にある池である。次の「青々とした香具山」とあるのも、福永説の天香山は、香春三ノ岳で、持統天皇の時代(平安時代の最澄の頃まで)は、石灰岩がむき出しの真っ白い山であり青々とした山(青香具山)ではない。そして、青香具山は、宮殿の東の方角にある。
さらに「畝傍の瑞々しい山」と詠まれているのも真っ白い石灰岩の香春一ノ岳では当てはまらない。そして、この山は、宮殿の西の方角にあると詠まれている。福永説でいう倭三山(天香山、耳成山、畝尾山)は、香春岳であり三連山の山であるから宮殿からの方角が、東とか西とかにはならないし、北も南も無い。
さらにこの歌では、「耳成山は北の御門」、「吉野の山は南の御門」と詠まれている。
52番、53番の「藤原宮の御井の歌」は、下記の通りの「近畿遷都後の藤原京」が詠まれている。
・藤原宮の北:耳成山
東:香久山
西:畝傍山
遥か南の方:吉野
というのは、現在の奈良県の藤原宮との位置関係で詠まれている。これは、8世紀後半(西暦784年)に福岡県の桂川町にあった平城京から近畿の長岡京に遷都した。それと同様に藤原宮も行橋市の福原長者原遺跡から奈良県桜井市に遷された。宮殿が移築された。
本当の藤原宮の規模は、下記の藤原京条坊復元図にある赤点線の範囲であるが、南北は一条北大路から十条大路。東西は、東五坊大路から西五坊大路の範囲で描かれているが、京域の中に三輪山等の神の山が含まれることはありえない。
福原長者原遺跡は、後に福原長者原官衙遺跡とさせられたが、地方の役所跡の遺跡ではない。明らかに京師の遺跡である。
発掘調査の結果、少し小さ目のⅠ期遺構とその外側にあるⅡ期遺構が見つかっている。ところが、この福原長者原遺からは、屋根瓦が1枚も出土されていない。だから、緑線で囲まれたⅠ期遺構が「飛鳥板葺宮」跡だろうと考えている。
その外側にある赤線で囲まれたⅡ期遺構が、「藤原宮」跡だろうと考えている。何故かというと、この赤線で囲まれたⅡ期遺構の大きさは、奈良県の藤原京の赤点線の範囲で示す大きさと寸分の違いも無く同じ大きさである。
この福原長者原遺跡を発掘調査された国立歴史民俗博物館の林部均教授が、発掘調査後に行橋市で開催されたシンポジウムの中で藤原宮だと思ったと話されている。この福原長者原遺跡に建っていた宮殿唐の建物が解体されて移築されて、現在の奈良県の藤原宮跡に建てられた。
仁徳天皇の時代に役民が造る歌が50番歌の「藤原宮之役民作歌」で、その隣に、52・53番の「藤原宮の御井の歌」がある。万葉集の巻第一は、謎だらけである。数百年の開きがある歌が並んでいる。52・53番歌は、近畿遷都後に遷された藤原宮が詠まれている。
日本書紀に書かれている藤原宮と続日本紀に書かれている藤原宮は、同じ場所の宮ではない。福永説の天香山は香春三ノ岳であり、平安時代の最澄の時代まで石灰岩剥き出しの純白の山であったから、「青香具山」と詠われるのは馴染まないのである。
つまり、『万葉集』巻第一の中の隣同士で、「近畿遷都前の藤原宮」と「近畿遷都後の藤原宮」が詠われていた。