倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集④ 大伴旅人
(令和4年12月14日 於:小倉城庭園研修室)

 「 大伴旅人の経歴と歌 」の動画の内容を掲載したページです。

  大伴旅人の経歴/官歴/歌

 大伴旅人の記録は、晩年になってからしか出てこない。

 大伴旅人の経歴
(生没)
天智4年((665年))天平3年((731年))
和銅3年((710年))  正月
 元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。
和銅4年((711年)) 従四位下
和銅8年((715年)) 従四位上・中務卿
養老2年((718年)) 中納言
養老3年((719年)) 正四位下 
と元明朝から元正朝にかけて順調に昇進する。
養老4年((720年))
 2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した隼人の反乱の報告を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。
 5月頃軍営を張り、6月中旬までには一定の成果を上げる。
 大伴旅人の経歴(つづき)
 その後、8月3日に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから、8月812日に旅人は寧楽(ねいらく)京に戻るよう勅を受ける
 しかし、隼人の平定は未了であったため、副将軍以下は引き続き駐屯を命じられている。

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養老5年((721年)) 従三位
神亀元年((724年)) 聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられる。
神亀5年((728年))
 大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任する。
 60歳を過ぎてからの二度目の九州下向大宰府赴任であったが、この任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事の両説がある。
 大宰府では山上憶良・満誓らとの交流を通じて筑紫歌壇を形成した。
 赴任後間もなく妻を亡くし、後には異母妹の坂上郎女が西下移住している。

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 寧楽(ねいらく):奈良の古称。

 旅人は、元明天皇・元正天皇・聖武天皇の御世に活躍した人物である。

 ウィキペディアにある「二度目の九州下向」は削除し「大宰府赴任」とした。

 大伴旅人の経歴(つづき ②)
 なお、子息の家持・書持や坂上郎女の西下移住時期については、旅人の赴任と同時とする説と、天平2年((730年))6月に旅人が危篤になった時との両説がある。
 しかし、旅人の大宰帥時代については、史料が万葉集のみに限られていることから、旅人周辺の人物関係については推測の域を出ていない考察が多い。
 旅人が九州大宰府にいる間の神亀6年((729年))長屋王の変で左大臣・長屋王が自殺。
天平2年((730年))
 9月には大納言・多治比池守が薨去と大官が次々と没したことから、旅人は太政官において臣下最高位となる(太政官の首班は知太政官事・舎人親王)。
 11月に大納言に任ぜられて帰京入京する。
天平3年((731年))
 正月に従二位に昇進するが、まもなく病を得て7月25日に薨去。享年67。
 最終官位は大納言従二位。

 「天平2年(730年)11月に大納言に任ぜられて帰京入京する。」の部分は、通説では奈良県の平城京へ「帰京」したとしているが、福永説の平城京は桂川町にあったとしているから「入京」するとなる。

 大伴旅人の官歴
時期不詳:正五位上
和銅3年((710年))正月1日:左将軍
和銅4年((711年))4月7日:従四位下
和銅7年((714年))11月26日:左将軍
和銅8年((715年))正月10日:従四位上
    5月22日:中務卿
養老2年((718年))3月10日:中納言、中務卿如元
養老3年((719年))正月13日:正四位下
    9月8日:兼山背国摂官
時期不詳:検税使
養老4年((720年))3月4日:兼征隼人持節大将軍
養老5年((721年))正月5日:従三位
    3月25日:給帯刀資人4人
  12月8日:御陵造営司(元明上皇崩御)
 大伴旅人の官歴(つづき)
神亀元年((724年))2月4日:正三位、益封
神亀3年((726年))日付不詳:知山城国事(『公卿補任』)
神亀5年((728年))頃:大宰帥
天平2年((730年))11月1日:大納言(『公卿補任』)
天平3年((731年))正月27日:従二位
太宰帥大伴旅人卿讃酒像

 大宰帥大伴旅人卿讃酒像
 小杉放菴(1881 - 1964) (©出光コレクション)

 旅人の歌、71首を歌番号順に一覧に示す。その中で講演時に取り上げた「赤字番号の歌」は、詳細ページをがあります。
 最初の2首は、巻第三の315番・316番は「暮春の月に芳野の離宮に幸しし時、中納言大伴卿の勅を奉りて作れる歌一首(并せて短歌、いまだ奏上を経ざる歌)」である。
 次の331番から335番の5首は、「大伴卿の歌五首」である。

 大伴旅人の歌
み吉野の吉野の宮は山からし(たふと)くあらし......(長歌)
昔見し(きさ)の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも
我が(さか)りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
我が命も常にあらぬか昔見し(きさ)の小川を行きて見むため
浅茅原(あさぢはら)つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも
忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ
 大伴旅人の歌(つづき)
大宰帥(だざいのそち)大伴卿の酒を()むる歌十三首
(しるし)なきものを思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
酒の名を(ひじり)と負ほせしいにしへの大き聖の(こと)の宣しさ
いにしへの(なな)(さか)しき人たちも()りせしものは酒にしあるらし
(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし
言はむすべ為むすべ知らず極まりて(たふと)きものは酒にしあるらし
なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に()みなむ
 大伴旅人の歌(つづき ②)
あな醜賢(みにくさか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
(あたひ)なき宝といふとも一(つき)の濁れる酒にあにまさめやも
夜光る玉といふとも酒飲みて心を()るにあにしかめやも
世間(よのなか)の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし
この世にし楽しくあらば()む世には虫に鳥にも我れはなりなむ
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな
黙居(もだを)りて(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり
 大伴旅人の歌(つづき ③)
438番 
愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや
439番 
帰るべく時はなりけり都にて誰が手本をか我が枕かむ
440番 
都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし
446番 
我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき
447番 
鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
448番 
礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
449番 
妹と来し敏馬の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも

 巻第三の451番〜453番の3首は、「故郷の家に還り入りて、即ち作れる歌三首」である。

 巻第四の555番にある「安の野」は、安野村(現筑前町)である。

 大伴旅人の歌(つづき ④)
450番 
行くさにはふたり我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも
人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
妹としてふたり作りし我が山斎は木高く茂くなりにけるかも
我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る
君がため醸みし待酒安の野にひとりや飲まむ友なしにして
574番 
ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし
577番 
我が衣人にな着せそ網引する難波壮士の手には触るとも

 『万葉集』巻第五の「梅花歌卅二首并序」の中にある822番が、旅人自身が詠んだ歌である。

 大伴旅人の歌(つづき ⑤)
793番 
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
806番 
龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため
807番 
うつつには逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
810番 
いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ
811番 
言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし
我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
847番 
我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまた変若めやも
 大伴旅人の歌(つづき ⑥)
848番 
雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身また変若ぬべし
849番 
残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも
850番 
雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
851番 
我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
852番 
梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思ふ酒に浮かべこそ
853番 
あさりする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と
854番 
玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき
 大伴旅人の歌(つづき ⑦)
855番 
松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
856番 
松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも
857番 
遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我れこそ卷かめ
858番 
若鮎釣る松浦の川の川なみの並にし思はば我れ恋ひめやも
859番 
春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに
860番 
松浦川七瀬の淀は淀むとも我れは淀まず君をし待たむ
861番 
松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ

 『万葉集』巻第六の960番は、北九州市に関わった歌であった。

 大伴旅人の歌(つづき ⑧)
862番 
人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我れは恋ひつつ居らむ
863番 
松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ
871番 
遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名
956番 
やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ
957番 
いざ子ども香椎の潟に白栲の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ
隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり
961番 
湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
 大伴旅人の歌(つづき ⑨)
967番 
大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも
968番 
ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ
969番 
しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ
970番 
指進の栗栖の小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ
1473番 
橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き
1541番 
我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿
1542番 
我が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
 大伴旅人の歌(つづき ➉)
1639番 
沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも
1640番 
我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
博多人形のジオラマ「梅花の宴」

 大宰府展示館に展示「梅花の宴」を再現した博多人形のジオラマ
 (山村延あき氏製作・公益財団法人 古都大宰府保存協会所蔵)