倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第三 雑歌 241番 (嘉穂の地に埋葬された天智天皇を偲んだ歌)
『万葉集』巻第二の柿本人麻呂の歌、200〜222番「讃岐の狭岑嶋に石中の死人を視て、柿本朝臣人麻呂作歌一首并せて短歌」に関係すると思われる歌が、少し離れるが、『万葉集』万葉集巻第三の241番歌である。
241番歌の末句「海成可聞」を「海鳴するかも」と訓読した。通説では、「海を成すかも」と訓読するので、「荒山中に海をお造りになることだなあ」では意味が分からない。
「海鳴するかも」と訓読したが、何故「山の中で海鳴りするかも」というのが、今一つピンとこなかった。そこでこの謎は、今まで持ち越していた。
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長年、筑豊の伝承を探っていく中で、下記の伝承に行き当った。それが、天智天皇の陵である。
上記の「天智天皇の御子に嘉麻郡を賜はりし事あり」に書かれているのは、天智天皇の第7皇子の志貴皇子(芝基皇子)である。天武天皇紀には、芝基皇子が、200戸を与えられたとの記事もある。
下記の写真は、嘉穂郡誌に書かれている天智天皇の陵である。現在の石搭の最下部の石は、鎌倉時代のものであるから、その下の部分に埋葬されていると思われる。
その天智天皇の陵とされている土地は、財務省(旧大蔵省)の雑種地となっている。明治時代に天智天皇、長慶天皇の名が残されているので、国有地となった。
241番歌の末句「海鳴するかも」と訓読した意味が解けた。志貴皇子と柿本人麻呂は、入水自殺された天智天皇の遺骸を小島より引き上げ、遠賀湾を遡り、ここ嘉穂の千手の地に遺骸を埋葬した。
天武紀に書かれている志貴皇子が200戸賜った土地が、嘉穂郡誌に書かれた土地であれば、ここにある天智天皇の陵に天智天皇の遺骸したと考えられる。
柿本人麻呂は、入水自殺された天智天皇の遺骸をここ嘉穂の山中に埋葬されたので、ここで天智天皇の挽歌を詠んだ。山の中では、風が吹けば木の葉がザワザワとする。主君天智天皇は玄界灘に無念の入水されたのだから、そのザワザワした音が海なりに聞こえたのであろう。だから、「真木の立つ 荒山中に
海鳴するかも」と詠まれたと思われる。
これで、241番歌の解釈が、成り立ったのである。