倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第三 雑歌 249番〜256番 (天智天皇の瀬戸内巡行・往路)
万葉集・巻第三にある249番〜256番の「柿本朝臣人麿の羇旅の歌八首」は、人麻呂が主君天智天皇にお伴して瀬戸内海を東へ向かって旅をした時の歌である。
この8首を「天智天皇の瀬戸内巡行」と題した。
最初の249番歌は、難訓歌と言われている歌の一首に数えられている。
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249
一般的な万葉集の原文では、最後の句が「奴嶋尓」となっているが、『古葉略類聚抄』の中には「美」が入り「美奴嶋尓」とある。
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『古葉略類聚抄』は、『万葉集』の歌を題材毎に分類抄出した歌集である。
したがって、この最後の句を「美奴の嶋へに」と詠んだ途端に、行橋市蓑島が出てきた。下記の地図で行橋市蓑島の場所を示す。
この249番が、「柿本朝臣人麿の羇旅の歌八首」の最初の一首なので、旅の出発地点が、行橋市の蓑島となる。
通説では、大阪の難波を出発して瀬戸内海を西(九州)へ向かったとしているのとは逆で、九州(行橋市)から瀬戸内海を東へ向かって旅をした時の歌だった。
249番歌は、天智天皇が行橋市蓑島を出発し、瀬戸内巡行に出かける時に柿本人麻呂が傍で付き添って詠まれた歌である。
旅の出発地である行橋市蓑島には、蓑島神社があり、この神社には神武天皇が祭られており、自身の先祖である神武天皇に旅の安全を祈願したのであろう。シチュエーションもピッタリである。
美奴の嶋か?
行橋市蓑島から瀬戸内海を東へ向かって出発して次に詠まれたのが、250番・251番歌である。
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251
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250
この2首に詠まれている「野嶋」は、今治市(旧越智郡宮窪町)の能島である。
中世、村上水軍の一派、能島水軍(野島氏)が水軍城を設けた。この付近の海域は帆船時代、瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つであった。
しかも宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係であることから、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。
万葉集250番・251番で詠まれた「野嶋」が、今治市(旧越智郡宮窪町)の能島であり、また、この天智天皇の伝説が残る甘崎城跡は今治市上浦町にあり、行橋から船は瀬戸内海を東へ向かっている。
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「越智」:『天智天皇紀』七年二月記事に「曰二遠智娘一。」とあり、天智天皇は、伊豫の越智氏の娘を妃に迎えている。
更に瀬戸内海を東へ行った場所にある天智天皇の伝説の地を示す。
・屋嶋城(高松市屋島東町)
この屋嶋城については、『天智天皇紀』六年十一月の記事に「築二倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城一。」とある。
屋嶋城より少し東に位置する場所にある天智天皇の伝説地を示す。
・引田城跡(香川県東かがわ市引田)
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「安倍比羅夫」は、『天智天皇紀』に「阿倍引田臣比邏夫」と出てくる。
伊豫國・讃岐國にある天智天皇の伝説の地よりさらに瀬戸内海を東へ進んだ場所で詠まれたのが、252番・253番歌である。
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253
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252
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『倭名類聚鈔』の「播磨国明石郡」には、葛江(布知衣)・明石・住吉・神戸・邑美・垂見・神戸という七つの里があった。
254番・255番歌は、明石海峡の歌である。
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255
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254
通説では、「柿本朝臣人麿の羇旅の歌八首」の中の二首目(250番)・三首目(251番)で詠まれている「野嶋」は、淡路島の野島としている。
通説と福永説では根本的に違う。京師が何処にあったかが、問題である。福永説では、京師は豊国にあったとしている。
また、下記に示す白黒の地図は、『万葉集事典』に付いている地図である。こちらの地図でも淡路島の中に「野島」が示されている。「敏馬」は、芦屋市の所である。
さらに八首目(256番)にある「飼飯の海」も淡路島の中に記されている。
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「飼飯」は、『仲哀天皇紀』に「幸二角鹿一。卽興二行宮一而居之。是謂二笥飯宮一。」とある。
福永説では、行橋を出発してから二首目(250番)・三首目(251番)に詠まれた「野嶋」の地は、伊豫國であり、淡路島はまだ随分先である。
瀬戸内海を東に進んで、四首目(252番)・五首目(253番)で、淡路島の対岸に当る加古川市から明石市の海の歌二首を詠み、次の六首目(254番)・七首目(255番)で、明石大門(明石海峡)の歌二首を詠んだしたルートである。
八首目(256番)が、天智天皇の瀬戸内巡行・往路の最後の歌である。この歌でよまれた「飼飯の海」は、福井県の敦賀湾である。
旅のルートは、五首目(253番)で詠まれている「可古島」から分かるように加古川を遡り、分水嶺を越えて、丸山川に出る。そこから川を下り日本海に出る。そこから、海岸沿いに敦賀まで旅をした。その地で詠まれた歌が、256番歌である。
福永説の中で説明している神功皇后の征西ルートの全く逆のコースである。
「万葉集」巻第三 雑歌 303番・304番 (天智天皇の瀬戸内巡行・帰路)
天智天皇の瀬戸内巡行の帰路の歌が、『万葉集』巻第三の「柿本朝臣人麿の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌二首」の303番・304番歌である。往路で詠まれた歌は八首もあるが、帰路はたった二首のみで、最初にいきなり加古川付近まで戻ってきて詠まれた歌である。
したがって、万葉集に全部の倭歌が揃っているとは限らない。
303番歌に「稲見の海」と詠まれているが、現在も加古川市の隣に稲美町がある。この辺りの海で詠まれている。
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303番歌の原文は、この「山跡」と書いて「やまと」と読ませている。「やまと」の表記は、十数類もある。
2首目が有名な304番歌である。
この304番歌に詠まれている「嶋門」は、古遠賀湾の入り口付近の遠賀町島門である。対岸の芦屋町には、「大君」という地名が見える。
天智天皇と人麻呂一行は、古遠賀湾の「嶋門」の地まで帰ってきた。そこからは、古遠賀湾の対岸にある水巻町頃末の辺りの島が見えていた。そこが、現在の多賀山であり「於能碁呂島」である。『古事記』にある伊邪那岐命と伊邪那美命の国土の修理固成の頃を思い詠われた。