倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑥ 柿本人麻呂②
 (令和5年2月22日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第三 雑歌 249番〜256番  (天智天皇の瀬戸内巡行・往路)

 「豊国の万葉集 豊国の万葉集⑥ 柿本人麻呂② 249〜256番歌、303・304番歌」の 動画 をご視聴時に参考にして下さい。

 万葉集・巻第三にある249番〜256番の「柿本朝臣人麿の羇旅(たび)の歌八首」は、人麻呂が主君天智天皇にお伴して瀬戸内海を東へ向かって旅をした時の歌である。
 この8首を「天智天皇の瀬戸内巡行」と題した。

 最初の249番歌は、難訓歌と言われている歌の一首に数えられている。

「万葉集」巻第三 雑歌
 三津の崎の波が恐ろしいので入り江の舟で天智天皇は航海の安全を祈っていらっしゃる。蓑の島に。
 「美奴(みの)の嶋」は、行橋市蓑島(みのしま)より出港か。「公」は天智天皇。

 三津の崎 浪を(かしこ)隠江(こもりえ)の 舟に(きみ)()美奴(みの)の嶋へに
 三津埼 浪矣恐 隠江乃 舟奴嶋
 「古葉略類聚鈔」に「」がある。

 三津埼 浪矣恐 隠江乃 舟公宣 奴嶋尓

249

 柿本朝臣人麿覊旅(たび)歌八首

 一般的な万葉集の原文では、最後の句が「奴嶋尓」となっているが、『古葉略類聚抄』の中には「」が入り「奴嶋尓」とある。

※1

 『古葉略類聚抄』は、『万葉集』の歌を題材毎に分類抄出した歌集である。

 したがって、この最後の句を「美奴(みの)の嶋へに」と詠んだ途端に、行橋市蓑島(みのしま)が出てきた。下記の地図で行橋市蓑島の場所を示す。

 この249番が、「柿本朝臣人麿の羇旅(たび)の歌八首」の最初の一首なので、旅の出発地点が、行橋市の蓑島となる。
 通説では、大阪の難波を出発して瀬戸内海を西(九州)へ向かったとしているのとは逆で、九州(行橋市)から瀬戸内海をへ向かって旅をした時の歌だった。
 249番歌は、天智天皇が行橋市蓑島を出発し、瀬戸内巡行に出かける時に柿本人麻呂が傍で付き添って詠まれた歌である。
 旅の出発地である行橋市蓑島には、蓑島神社があり、この神社には神武天皇が祭られており、自身の先祖である神武天皇に旅の安全を祈願したのであろう。シチュエーションもピッタリである。

地図「行橋市・みやこ町」

美奴(みの)の嶋か?

 行橋市蓑島から瀬戸内海を東へ向かって出発して次に詠まれたのが、250番・251番歌である。

 淡路の能島の崎の浜を吹く風にまかせて、妹の結んだ紐を吹きかえさせることだ。
 「粟路」は、淡路。「野嶋」は、能島(のしま)

 粟路(あはみち)の 野嶋の崎の 浜風に (いも)が結びし (ひも)吹きかへす
 粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 紐吹返

251

 美しい藻を刈る敏馬を過ぎて、夏草の茂る能島の崎に船は近づいた。
 「野嶋」は、今治市(旧越智郡宮窪町)の能島(のしま)

 珠藻(たまも)刈る 敏馬(みねめ)を過ぎて 夏草の 野嶋の崎に 舟近づきぬ
 珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴

250

「万葉集」巻第三 雑歌

 この2首に詠まれている「野嶋」は、今治市(旧越智郡宮窪町)の能島(のしま)である。

「今治市(旧:越智郡宮窪町)の能島」

宮窪瀬戸

鵜島

能島

 中世、村上水軍の一派、能島水軍(野島氏)が水軍城を設けた。この付近の海域は帆船時代、瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つであった。
 しかも宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係であることから、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。

「今治市(旧:越智郡宮窪町)の能島」

鵜島

能島

鯛崎島

 戦国時代 考証 香川元太郎 1999年 村上水軍博物館蔵

 下記に天智天皇の伝説が残されている場所を示す。

 ・甘崎(あまざき)城跡(今治市上浦(かみうら)町甘崎の古城島)

「今治市上浦町甘崎」

今治市上浦町甘崎の古城島(甘崎城跡)
 当城の築城期が天智天皇10年(671)とされているのは、当地にある甘崎荒神社の御由緒調査書から紹介された『伊予越智(おち)誌』によるもので、水軍城としては最も古いものとされている。
©西国の山城

 万葉集250番・251番で詠まれた「野嶋」が、今治市(旧越智(おち)郡宮窪町)の能島であり、また、この天智天皇の伝説が残る甘崎城跡は今治市上浦町にあり、行橋から船は瀬戸内海を東へ向かっている。

※2

 越智(おち)」:『天智天皇紀』七年二月記事に「曰遠智(をち)。」とあり、天智天皇は、伊豫の越智氏の娘を妃に迎えている。

 更に瀬戸内海を東へ行った場所にある天智天皇の伝説の地を示す。

 ・屋嶋城(やしまのき)(高松市屋島東町)

「屋嶋城(高松市屋島東町)」
屋嶋城(やしまのき)
●所在地 香川県高松市屋島東町
●指定 国指定史跡 ●形態 古代山城
●築城期 天智天皇六(667)年
●築城者 大和朝廷(中大兄皇子)

 この屋嶋城(やしまのき)については、『天智天皇紀』六年十一月の記事に「倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城」とある。

 屋嶋城(やしまのき)より少し東に位置する場所にある天智天皇の伝説地を示す。

 ・引田(ひけた)城跡(香川県東かがわ市引田)

「引田城跡(香川県東かがわ市引田)」
「引田城跡(香川県東かがわ市引田)」

引田城跡(香川県東 かがわ市 引田)
 城の起源は遠く天智天皇の6年(667)11月、屋島築城のとき、安倍比羅夫率いる引田氏によって築城したものであるといわれ、また、屋島城(軍団)との連絡のためにできた「狼煙台」として造られたのが城の始まりになったともいわれている。

※3

 「安倍比羅夫」は、『天智天皇紀』に「阿倍引田臣比邏夫」と出てくる。

 伊豫國・讃岐國にある天智天皇の伝説の地よりさらに瀬戸内海を東へ進んだ場所で詠まれたのが、252番・253番歌である。

 古い伝承にも語られる稲日野も行き過ぎがたく思っていると、心に恋しく思っていた可古の島が見えて来る。
 「印南野(いなみの)・可古島」は、加古川市一帯。

 稲日野(いなびの)()き過ぎかてに 思へれば 心恋(こほ)しき 可古(かこ)の嶋見ゆ
 稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見

253

 荒い布を織る藤江の浦に鱸を釣る海人と見るだろうか。旅をつづける私を。
 「藤江の浦」は、播磨国明石郡葛江(ふじえ)

 荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に (すずき)釣る 白水郎(あま)とか見らむ 旅行く吾を
 荒栲 藤江之浦尓 鈴木釣 泉郎跡香将見 旅去吾乎

252

「万葉集」巻第三 雑歌

※4

 『倭名類聚鈔』の「播磨国明石郡」には、葛江(ふじえ)(布知衣)明石(あかし)住吉(すみよし)神戸(かんべ)邑美(おうみ)垂見(たるみ)神戸(かんべ)という七つの里があった。

 254番・255番歌は、明石海峡の歌である。

 天離る東への長い道のりをずっと妹を恋いつづけて来ると、明石海峡から倭嶋が見える気がする。
 「夷の」は、東への。「倭嶋」は、九州島

 天離(あまざか)(ひな)長道(ながぢ)ゆ 恋ひ来れば 明石の()より 倭嶋(やまとじま)見ゆ
 天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見

255

 ともしびの明るい明石海峡に入っていく日に、漕ぎ別れてゆくのだろうか、家のあたりを見ずに。
 「明石大門」は、明石海峡

 留火(ともしび)明石(あかし)大門(おほと)に 入る日にか 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
 留火之 明大門尓 入日哉 榜将別 家當不見

254

「万葉集」巻第三 雑歌
「明石海峡・明石海峡大橋」
「ネットミュージアム兵庫文学館」の地図

 今まで解説してきた福永説の行橋を出発し、瀬戸内海を東へ東へと旅して来たルートとは逆である近畿の難波から瀬戸内海を西へ向かう通説の旅のルートを下図で見ていく。

 万葉のころ、難波(なには)から西に向かう船は、瀬戸内海をすすみ、明石大門(あかしおほと)へ…。ここから異郷の地へと船は進んでいきます。
(©ネットミュージアム兵庫文学館)

 通説では、「柿本朝臣人麿の羇旅(たび)の歌八首」の中の二首目(250番)・三首目(251番)で詠まれている「野嶋」は、淡路島の野島としている。
 通説と福永説では根本的に違う。京師が何処にあったかが、問題である。福永説では、京師は豊国にあったとしている。
 また、下記に示す白黒の地図は、『万葉集事典』に付いている地図である。こちらの地図でも淡路島の中に「野島」が示されている。「敏馬(みねめ)」は、芦屋市の所である。
 さらに八首目(256番)にある「飼飯(けひ)の海」も淡路島の中に記されている。

※5

 飼飯」は、『仲哀天皇紀』に「幸角鹿(つぬが)。卽興行宮而居之。是謂笥飯(けひ)。」とある。

 福永説では、行橋を出発してから二首目(250番)・三首目(251番)に詠まれた「野嶋」の地は、伊豫國であり、淡路島はまだ随分先である。
 瀬戸内海を東に進んで、四首目(252番)・五首目(253番)で、淡路島の対岸に当る加古川市から明石市の海の歌二首を詠み、次の六首目(254番)・七首目(255番)で、明石大門(あかしおほと)(明石海峡)の歌二首を詠んだしたルートである。
 八首目(256番)が、天智天皇の瀬戸内巡行・往路の最後の歌である。この歌でよまれた「飼飯(けひ)の海」は、福井県の敦賀湾である。
 旅のルートは、五首目(253番)で詠まれている「可古島」から分かるように加古川を遡り、分水嶺を越えて、丸山川に出る。そこから川を下り日本海に出る。そこから、海岸沿いに敦賀まで旅をした。その地で詠まれた歌が、256番歌である。
 福永説の中で説明している神功皇后の征西ルートの全く逆のコースである。

 飼飯の海の海上は穏やからしい。刈り取った薦のようにあちこちから漕ぎ出して来るのが見える、漁師の釣り船よ。
 「飼飯の海」は、福井県敦賀湾

 飼飯(けひ)の海の 庭好(にわよ)くあらし 刈薦(かりこも)の 乱れ出づ見ゆ 海人(あま)の釣船
 飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船

256

「万葉集」巻第三 雑歌
地図「大阪湾・淡路島」
「敦賀湾」

 「万葉集」巻第三 雑歌 303番・304番  (天智天皇の瀬戸内巡行・帰路)

 天智天皇の瀬戸内巡行の帰路の歌が、『万葉集』巻第三の「柿本朝臣人麿の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌二首」の303番・304番歌である。往路で詠まれた歌は八首もあるが、帰路はたった二首のみで、最初にいきなり加古川付近まで戻ってきて詠まれた歌である。
 したがって、万葉集に全部の倭歌が揃っているとは限らない。

 303番歌に「稲見の海」と詠まれているが、現在も加古川市の隣に稲美町がある。この辺りの海で詠まれている。

 名も美しい稲見の海の、沖波の千重の中に隠れてしまった、
大和の島
影は。
 「稲見の海」は、加古川市沖。「山跡」は、

 名くはしき 稲見(いなみ)の海の 沖つ浪 千重に隠りぬ 山跡(やまと)嶋根は
 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者

303

 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時、海路作歌二首
「万葉集」巻第三 雑歌

兵庫県 加古川市/加古郡 稲美町

地図「兵庫県」

※6

 303番歌の原文は、この「山跡」と書いて「やまと」と読ませている。「やまと」の表記は、十数類もある。

「稲見の海」

 2首目が有名な304番歌である。

 天智天皇の遠祖の朝廷として官人たちが通いつづける海路の、島門を見ると伊弉諾の国生みの神代が思われることだ。
 「嶋門」は、遠賀町島門。「神代」は、国生みの頃

 大王(おほきみ)(とほ)朝庭(みかど)蟻通(ありがよ)嶋門(しまと)を見れば 神代(かみよ)し思ほゆ
 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念

304

「万葉集」巻第三 雑歌
地図「古遠賀湾」

 この304番歌に詠まれている「嶋門」は、古遠賀湾の入り口付近の遠賀町島門である。対岸の芦屋町には、「大君(おおきみ)」という地名が見える。
 天智天皇と人麻呂一行は、古遠賀湾の「嶋門」の地まで帰ってきた。そこからは、古遠賀湾の対岸にある水巻町頃末(ころすえ)の辺りの島が見えていた。そこが、現在の多賀山であり「於能碁呂(おのごろ)」である。『古事記』にある伊邪那岐命と伊邪那美命の国土の修理固成の頃を思い詠われた。

「水巻町の多賀山」

 於能碁呂(おのごろ)
(水巻町・多賀山)