倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊国の万葉集⑤ 柿本人麻呂①
 (令和5年1月18日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第三 雑歌 264番・266番
             (人麻呂はこの歌でも天智天皇の挽歌を詠んでいた)

 『日本書紀』神功紀に武内宿禰が、入水自殺をした忍熊王の屍を探し、菟道河で発見した時に快哉を叫んで歌を詠んでいる。

 神功紀の「菟道河」/ 人麻呂歌の「氏河」

 (四世紀)神功皇后軍が忍熊王の軍を殲滅し、忍熊王入水自殺に追い込んだ。
 於是、探其屍而不得也。然後、數日之出於菟道河。武內宿禰亦歌曰、
 阿布瀰能瀰 齊多能和多利珥 介豆區苔利 多那伽瀰須疑氐 于泥珥等邏倍菟
 是に、其の屍を探れども得ず。然して後に、日数て菟道(うぢ)に出づ。武内宿禰、亦歌ひて曰く、
 淡海の海 齋多の濟わたりに 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ
 (『日本書紀』神功紀)
 忍熊王は「淡海の海齋多(せた)の濟」で入水自殺を遂げた。そこはである。
 王の死を確認し草薙の剣を入手するため、武内宿禰は屍を探索する。その屍は菟道河に上がった。 
 菟道河は、やはり人麻呂の歌から分かる。

 下記に神功皇后の豊国北伐で説明している「忍熊(熊坂)王の逃避行」を示す。

地図「香春・田川」

 忍熊王の屍を見つけた菟道河は、香春町を流れている金辺(きべ)川が彦山川と合流する辺りと思われ、その4世紀の出来事を人麻呂が、264番歌で詠んでいる。

 神功紀の「菟道河」/ 人麻呂歌の「氏河」
 柿本朝臣人麻呂従近江國上来時、至宇治河邊作謌一首
 物乃部能 八十氏河乃 阿白木尒 不知代經浪乃 去邊白不母

264

 物乃部の 八十氏河の 網代木に いさよふ浪の 去辺(ゆくへ)知らずも

*1

地図「古代田河道」

勢田 


田河道

*1

 網代木(あじろぎ):網代を支えるために、水中に打った(くい)
 網代:水中に竹や木を編んで立て、魚を捕らえるしかけ。

 264番歌で人麻呂は、忍熊王の屍が網代木に引っかかってしまった。その事が、いさよふ浪の行方がわからないように人の運命もわからないものだと詠っている。人麻呂は、4世紀の忍熊王を徹底的に悼んで詠んでいる。

 次の266番歌でも人麻呂は、昔(4世紀)の事が偲ばれると詠んでいる。

 神功紀の「菟道河」/ 人麻呂歌の「氏河」
 天の物部二十五部の居住したところの八十氏河と言えば、古遠賀湾に注ぐ、現代の相当上流に当たる遠賀川の支流を指すようだ。
 例えば今日の香春町近辺(きんぺん)河口(かこう)になるあたりか。そこは古代田河道、すなわち菟狭(宇佐)に至る古道の近く。
 齋多の濟が頴田町勢田(鹿毛馬神籠石の近く)と仮定すると、この淡海に沈んでも満潮時には逆流して氏河金辺川)に押し戻されることも起こりうる。
 人麻呂はさらに次の歌も詠んでいる。
 柿本朝臣人麻呂歌一首
 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尒 古所念

266

 淡海の海 夕浪千鳥 ()が鳴けば (こころ)もしのに 古念(いにしへおも)ほゆ

 266番歌に詠まれた「淡海の海」は、絶対に古遠賀湾である。「(いさな)取り」の海である。滋賀県の琵琶湖では、クジラは捕れない。

 歌の表向きは、4世紀に神功皇后軍に滅ぼされた忍熊王の悲劇を詠んだ歌であると長年思っていた。ここで忍熊王が入水自殺したのと同様に福永説では、天智天皇も入水自殺とした考えているので、歌の真意にやっと気が付いた。

 「壬申の乱」が終わり、天下は勝利した天武天皇の御世になり、人麻呂は、主君であった天智天皇の挽歌を大っぴらには詠めない。
 したがって、4世紀に入水自殺した忍熊王の悲劇を詠う事によって、主君の天智天皇の入水自殺を重ねて悼み詠んでいた。
 だから、通説(上代文学史)では柿本人麻呂は、天皇の挽歌を詠んでいないとされているが、人麻呂は天智天皇の挽歌を詠んでいた事が分かった。入水自殺を悼んだ2重構造で詠まれた歌であった。表向きは、忍熊王の入水自殺。裏は天智天皇の入水自殺を悼んで詠まれていた。

 そうだとすれば、『万葉集』巻1の29番・30番・31番歌で詠われれいる「大宮人」も実は天智天皇であった事にやっと気が付いた。人麻呂は、この歌でも天智の挽歌を詠んでいた。