倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第三 雑歌 264番・266番
(人麻呂はこの歌でも天智天皇の挽歌を詠んでいた)
『日本書紀』神功紀に武内宿禰が、入水自殺をした忍熊王の屍を探し、菟道河で発見した時に快哉を叫んで歌を詠んでいる。
※
忍熊王の屍を見つけた菟道河は、香春町を流れている金辺川が彦山川と合流する辺りと思われ、その4世紀の出来事を人麻呂が、264番歌で詠んでいる。
*1
網代木:網代を支えるために、水中に打った杙。
網代:水中に竹や木を編んで立て、魚を捕らえるしかけ。
264番歌で人麻呂は、忍熊王の屍が網代木に引っかかってしまった。その事が、いさよふ浪の行方がわからないように人の運命もわからないものだと詠っている。人麻呂は、4世紀の忍熊王を徹底的に悼んで詠んでいる。
次の266番歌でも人麻呂は、昔(4世紀)の事が偲ばれると詠んでいる。
266
266番歌に詠まれた「淡海の海」は、絶対に古遠賀湾である。「鯨取り」の海である。滋賀県の琵琶湖では、クジラは捕れない。
歌の表向きは、4世紀に神功皇后軍に滅ぼされた忍熊王の悲劇を詠んだ歌であると長年思っていた。ここで忍熊王が入水自殺したのと同様に福永説では、天智天皇も入水自殺とした考えているので、歌の真意にやっと気が付いた。
「壬申の乱」が終わり、天下は勝利した天武天皇の御世になり、人麻呂は、主君であった天智天皇の挽歌を大っぴらには詠めない。
したがって、4世紀に入水自殺した忍熊王の悲劇を詠う事によって、主君の天智天皇の入水自殺を重ねて悼み詠んでいた。
だから、通説(上代文学史)では柿本人麻呂は、天皇の挽歌を詠んでいないとされているが、人麻呂は天智天皇の挽歌を詠んでいた事が分かった。入水自殺を悼んだ2重構造で詠まれた歌であった。表向きは、忍熊王の入水自殺。裏は天智天皇の入水自殺を悼んで詠まれていた。
そうだとすれば、『万葉集』巻1の29番・30番・31番歌で詠われれいる「大宮人」も実は天智天皇であった事にやっと気が付いた。人麻呂は、この歌でも天智の挽歌を詠んでいた。