倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集④ 大伴旅人
(令和4年12月14日 於:小倉城庭園研修室)

 「 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首(344~350番) 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第三 雑歌 338番〜350番 (楽しい酒を詠んでいなかった)

 大伴旅人は、大宰帥となった後の妻の大伴郎女を大宰府で亡くす。その後に『万葉集』巻第三にある「大宰帥大伴卿の酒を()むるの歌十三首」を詠む。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師

338

 (しるし)なき ものを思はずは 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
 甲斐の無いもの思いをしないで一杯の濁酒を飲むべきであろう。
 酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左

339

 酒の名を (ひじり)()ほせし いにしへの 大き聖の (こと)の宣しさ
 酒の名を聖人とつけた昔の大聖人の言葉の何とよいことよ。
 徐邈(じょばく)、字は景山、燕國(けい)人なり。…魏國の初建、尚書郎(ショウショロウ)と爲る。時に禁酒を科すれども、邈私に飲て沈醉に至る。校事趙達(ちょうたつ)問ふに曹事を以てし、邈曰く「聖人に中る」と。達之を太祖に白す。太祖甚だ怒る。度遼(とりょう)將軍鮮于輔(センウホ)、進みて曰く、「平日醉客酒の清なる者を謂ひて聖人と爲、濁れる者を賢人と爲。邈の性脩慎にして、偶醉言するのみ」と。竟に坐して刑を免かるるを得たり。
『三國志』魏志徐邈傳

 339番で「酒の名を聖人とつけた昔の大聖人の言葉の何とよいことよ」と詠っている旅人は、『三國志』魏志徐邈(じょばく)傳と読んで理解している事は明らかである。「昔の大聖人」とは、徐邈(じょばく)の事である。
 旅人は、我々現代人には想像もつかないほど漢籍に精通していた。熟知していた人物であり、『三国志』は、全て読んでいたかも知れない。

 340番歌に竹林七賢のことを詠んでいる。その七賢人について、魯迅(ろじん)(1881-1936)の講演会の記録があり、その講演会の記録を竹内好氏が訳したのが『魯迅評論集』である。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師

340

 いにしへの (なな)(さか)しき 人たちも ()りせしものは 酒にしあるらし
 昔の中国の七賢人も欲したものはこの酒であるようだ。
魯迅(ろじん)/竹内好訳『魯迅評論集』1981 岩波文庫〉
 阮籍(げんせき)は若いころ、訪ねてくる客に対して青眼と白眼とを使い分けました。白眼というのは、たぶん瞳を見えなくすることでしょう。よほど長いあいだ、練習を積まなければできますまい。青眼なら私にもできますが、白眼は私にはできません。・・・・  かれらの生活ぶりは、酒を飲むときは服も帽子もたいてい取ってしまうのです。ふたん、こんな風にしていたら、私たちは無作法だと思いますが、かれらはそうではありません。服喪中でも、規則どおりに泣いたりなどしないのです。子は父の名を口にすることができないものですが、竹林名士のあいだでは、子が平気で父の名を呼びます。昔から伝わって

 阮籍(三国時代の魏王朝の末期の人物)は、青眼と白眼を使い分けることができたというが、魯迅は白眼は出来ないと云っている。
 これが、気に入らない人物を冷遇することを白眼視するという言葉の由来になった。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
いる礼教を、竹林名士は承認しなかったのです。
 たとえば劉怜(りゅうれい)――ご承知のように『(しゅ)徳頌(とくのしょう)』の作者です――は、昔
から世間に通用する
道理を承認しません
でした。こんな話が
伝わっております。
 あるとき客が来て
みると、かれは服を
着ていなかった。そ
れをなじられると、
彼はこう答えました。
天地はおれの家であ
り、家はおれの服で
ある。おまえたちは、
なんだっておれのズ
ボンのなかへはいっ
てきたんだ。
「七賢人」

竹林七賢(阮籍(げんせき)嵆康(けいこう)山濤(さんとう)向秀(しょうしゅう)劉伶(りゅうれい)阮咸(げんかん)王戎(おうじゅう))(🄫上古國際藝術股份有限公司)

 旅人は、中国の古典を隅々まで読んでいる。

 下記は「世説新語(せせつしんご)」:中国南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
(阮籍は)上下古今さえ承認しなかった。『大人(だいじん)先生(せんせい)伝』のなかに、こう書いております。「天地解けて六合開き、星辰()ちて日月(くず)る。われ(のぼ)(のぼ)るも、何を(おも)わんや」その意味は、天地も神仙もみな無意味だ、一切は不要だ、ということです。だから世の中の道理などとやかく言わなくていい、神仙も信ずるに足りない、とかれは考えた。一切が虚無である。したがって酒に耽溺(たんでき)したのです。じつは、もう一つの理由があります。飲酒は思想だけにもとづくのではなく、より多くは環境にもとづくものであったことです。当時、司馬氏はすでに帝位を奪おうと考えていた。ところが、阮籍は名声が非常に高い。だからうっかり口がきけない。そのため、なるべくしゃべらないようにし、また、たというっかりしたことをしゃべったにしても、酒に酔ってのことだといえば大目に見てもらえるから、それで酒ばかり飲んでいたのであります。あるとき、司馬懿(しば い)が阮籍と姻戚関係を結ぼうとしたが、なにしろ阮籍は一度酔っぱらえば二月も()めないので、言い出す機会がなかったそうです。この例だけでも、それがわかります。

 この「酒を讃える歌」は、旅人にとって楽しい酒ではない。苦い酒、あるいは苦しい酒である。旅人は、その心情を詠んでいる。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 賢跡 物言従者 酒飲而 酔哭為師 益有良之

341

 賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて ()ひ泣きするし まさりたるらし
 賢く物云うよりは、酒を飲んで酔い泣きをすることが、まさっているようだ。
 将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之

342

 ()はむすべ ()むすべ知らず 極まりて (たふと)きものは 酒にしあるらし
 言いようも、()しようも、知らない程に、この上もなく貴いもの
は、酒であ
るようだ。
太宰帥大伴旅人卿讃酒像

 大宰帥大伴旅人卿讃酒像
 小杉放菴(1881 - 1964)
 (©出光コレクション)

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞

343

 なかなかに 人とあらずは 酒壷に なりにてしかも 酒に染みなむ
 なまじ
っか人間
でいずに
酒壺にな
ってしま
いたいも
のだ。そ
うしたら、
酒にたっ
ぷり浸る
ことが出
来るだろ
う。
太宰帥大伴旅人卿讃酒像

 大伴旅人卿羨酒壺 作者:菅原楯彦(©奈良県立万葉文化館)

 343番歌に関する中国の古典がある。それがマイナーな『琱玉集(ちょうぎょくしゅう)』である。ここの載せている原文(白文)が、国立国会図書館デジタルコレクションにある。それを書き下した。

 「琱玉集(ちょうぎょくしゅう)」:唐代に作られた私撰の類書の一種で、さまざまな書物に見える逸話を分類して配列したものである。 巻12と巻14のみが日本に残る。

 「鄭泉(ていせん)」:『三国志』呉書に出てくる実在の人物である。

 だが、『琱玉集』巻十四 嗜酒篇に書かれているこの鄭泉の話は、『三国志』呉書には書かれていない。

 『琱玉集(ちょうぎょくしゅう)』巻十四 嗜酒(しゅしゅ)
 鄭泉(ていせん)、字は文淵(ぶんえん)、陳郡の人なり。孫権の時、太中大夫と為る。性酒を好む。乃ち嘆じて曰く、「願はくは三百 の船を得て酒を其の中に満てて四時甘餚(かんこう)を以て両頭に置き、升升を安んじて傍らに在り、減るに随ひて益さば、方に一生を足れりとすべきのみ」と。
 死に臨む日、其の子に勅して曰く、「我が死なば窯の側に埋むべし。数百年の後、化して土と成り、覬取(こひねが)はくは酒瓶と為り、心願を獲む」と。呉書に出づ。

『琱玉集』巻十四 嗜酒篇
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 旅人が、343番歌で「酒壷になりたい」と詠でいるが、『琱玉集』の「嗜酒(しゅしゅ)篇」に「酒瓶と為り」との話がある。中国の古典が元となっている歌である。
 「酒を讃える歌」から旅人が漢籍に精通していたことが、明白である。そして、旅人は、漢籍の話の内容を短歌(五七五七七)の中に入れ込んで詠んでいる。歌を詠む技術も凄い! 旅人の凄さを再認識させられた。

 344番歌の古典の出典は、見つからなかった。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見者 猿二鴨似

344

 あな(みにく) (さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
 ああみっともない。「馬鹿馬鹿しい。酒など」と利口そうに振る舞うとて、酒を飲まない人をよくよく見ると猿に似ているよ。
 今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武

345

 (あたひ)なき 宝といふとも 一(つき)の 濁れる酒に あにまさめやも
 仏法などで、評価を超えて貴い宝というが、それも一杯の濁酒に何のまさることがあろう。まさりはしない。

 346番歌の古典の出典は、『史記』魯仲連鄒陽列傳の中にある「隋侯」の話が、『万葉集』の解説書(『文選』呉都賦の注か)の中にある。
 346番歌で詠まれた「夜光る玉」だけを見ても旅人が、中国のマイナーな古典にまでも精通してたる事が分かる。したがって、『史記』等は、全て読んでいたとも思える。旅人は非常に教養が高い。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方

346

 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を()るに あにしかめやも
 どんなに貴重な夜光玉でも、憂さを晴らすに酒にかなうものはない。
『史記』魯仲連(‎ろちゅうれん)鄒陽(すうよう)列傳
「隋侯之珠、夜光之璧」
文選(もんぜん)』呉都賦の注か
 随侯が大蛇の傷つけるを見て薬を塗って(なお)せしめたが、後に蛇が夜光の大珠を(くわ)(きた)って恩に報じた。

 「魯仲連(‎ろちゅうれん)鄒陽(すうよう)」:中国戦国時代の遊説家。

 「文選(‎もんぜん)」:中国南北朝時代の南朝梁の蕭統によって編纂された詩集・文集。

 「随侯(‎ずいこう)」:春秋時代に存在した周代諸侯国である随国の国君。

 「三都賦(さんとのふ)」には、「(しょく)都賦」、「()都賦」、「()都賦」があり、当時の三都の情勢、物産、制度等を描いている。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 世間之 遊道尓 怜者 酔泣為尓 可有良師

347

 世間の 遊びの道に 楽しきは ()ひ泣きするに あるべかるらし
 世の中の遊楽の道にあって楽しいことは酔い泣きをすることであるようだ。
夜光珠(©SUNNY雜貨)
夜光珠
夜光珠(©SUNNY雜貨)

 348番歌では、輪廻転生(りんねてんしょう)が詠まれている。

 「輪廻転生(りんねてんしょう)」:亡くなった魂が生まれ変わり、死と再生を繰り返すという考え方。

 「五戒(ごかい)」:仏教において在家の信者が守るべき基本的な5つの戒めのこと。
 その一つが、不飲酒戒(酒を飲むな)。

 348番歌で「虫ににも我れはなりなむ」と詠まれているから、「藤原実方の執心雀となるの図」を入れた。旅人と直接には関係ありません。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武

348

 この世にし 楽しくあらば ()む世には 虫に鳥にも 我れはなりなむ
 この世で楽しく酒を飲むなら、来世では畜生道におちて、虫にでも鳥にでもなって構わない。
 飲酒は仏教の五戒の一。これを犯せば悪道におちるという。
藤原実方の執心雀となるの図

『新形三十六怪撰』 著者:月岡芳年
「藤原実方の執心雀となるの図」

 「新形三十六怪撰(しんけいさんじゅうろっかいせん)」:幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師・月岡芳年による妖怪画の連作。

 「藤原実方(ふじわらのさねかた)」:平安時代中期の貴族・歌人。官位は正四位下・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。

 『万葉集』巻第三 雑歌
 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 生者 遂毛死 物尓有者 今生在間者 樂乎有名

349

 生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
 生ける者は結局死ぬのだからこの世にある間は楽しくありたい。
涅槃経(ねはんぎょう)』「純陀品(‎じゅんだぼん)」第二
 一切諸世間 生者皆歸死
 壽命雖無量 要必有終盡
 黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚不如来

350

 黙居(もだを)りて (さか)しらするは 酒飲みて ()ひ泣きするに なほ()かずけり
 黙りこくって利口ぶるより酒に酔い泣きしている方がましではないか。

 「涅槃(ねはん)(ぎょう)」:釈尊の入滅されるその日の最後の説法を通して、仏教の根本思想を伝える経典である。

 「純陀品(‎じゅんだぼん)」:仏教の経典である『大般涅槃経』の品目のひとつで、釈尊の最後の供養者である純陀について記されている。

 「大宰帥大伴卿の酒を()むるの歌十三首」の中に「()ひ泣き」が、341番・347番・350番の3首に出てくる。旅人は、よほど「泣き上手」だったのでしょうか?
 旅人は、徹底的に酒を飲もうよと詠っているが、本当は楽しい酒ではない。心の奥には深い深い(わだか)りがある。政治的にも妻を失ったことも心に重い重い何かが占めている。その気持ちを晴らすには酒しかない。
 旅人は、その酒を中国の古典や仏教の教え等を参考にしながら「五七五七七」の短歌形式で十三首を連作で纏めて詠んだ。
 この十三首で詠んだ歌から旅人は、酒で()さを晴らすことは出来ない。心の奥底は、本当に暗く重苦しいと訴えただけである。