倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第三 雑歌 388番・389番 (人麻呂の羇旅「帰路」の歌?)
ここでは「若宮年魚麻呂と人麻呂の関係を挙げる。
388
389
*1
*1
誦:声を出して、節をつけてよむ。そらんずる。
この『万葉集』巻第3の「羈旅歌一首 并短歌」の388番・389番の左注に「若宮年魚麻呂誦めり」とあり、また「作者は審らかにせず」とある。注を付した菅原道真公が、若宮年魚麻呂作の歌だとは云っていない。
『万葉集』巻第3の387番「仙柘枝歌」を詠んだ若宮年魚麻呂は、山国町吉野の人である。その若宮年魚麻呂が、瀬戸内海を旅して388番・389番歌を読んだのか?
その388番・389番歌に詠まれている地名「淡路島」、「明石の門」、「敏馬の崎」は、「柿本朝臣人麿覊旅歌八首」の中でも詠まれている。
(福永説)では、通説とは真逆に「柿本朝臣人麿覊旅歌八首」は、人麻呂が天智天皇の御供をして行橋の港から近畿へと瀬戸内海を東へ進みながら(歌番号の順に)詠まれているとした。これが、「天智天皇の瀬戸内巡行・往路」である。
そして「天智天皇の瀬戸内巡行・帰路」の歌は、「柿本朝臣人麿の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌」と考えているが、2首しかない。
したがって、388番・389番の「羈旅歌一首 并短歌」は、柿本人麻呂作の歌とも考えられる。そして、人麻呂は天智天皇の吉野宮への行幸にもお供している。その吉野で詠まれた歌が『万葉集』巻1の36番・37番歌があり、人麻呂が吉野へ出かけた時に若宮年魚麻呂と出会っていたと考えれば、人麻呂作の388番・389番歌を若宮年魚麻呂が、声を出して節をつけて詠んだ(誦めり)との左注に書かれている事とも合う。
以上が「若宮年魚麻呂と人麻呂の関係」である。