倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集⑧ 「吉野の天女・天の羽衣伝説」
(令和5年4月20日 於:小倉城庭園研修室)

 「万葉集」巻第三 雑歌 388番・389番 (人麻呂の羇旅(たび)「帰路」の歌?)

 ここでは「若宮年魚麻呂と人麻呂の関係を挙げる。

 若宮年魚麻呂と人麻呂の関係
 羈旅(たび)歌一首 并短歌
 海若者 霊寸物香 淡路嶋 中尒立置而 白浪乎 伊与尒廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令于 塩左為能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡 侍従尒 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尒波母之頭氣師

388

 海神(わたつみ)は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻らし 居待月 明石の門ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮騒の 波を畏み 淡路島 礒隠り居て いつしかも この夜の明けむと さもらふに ()の寝かてねば 滝の上の 浅野の雉 明けぬとし 立ち騒くらし いざ子ども あへて漕ぎ出む 庭も静けし
 若宮年魚麻呂と人麻呂の関係
 海神(わたつみ)は霊妙なものよなあ。淡路島を海中に置いて、白波を四国の伊予の方までめぐらせた。月の出を待って夕方には明石海峡から潮が満ちて来、明けてくる頃になると潮が引いてゆく。この波の潮騒が恐ろしくて、淡路島の磯の陰に身を潜め、いつになったらこの夜が明けるだろうと待っている。寝るに寝られなくて待っていると、滝の上の浅野の雉が、夜が明けてきたよと立ち騒ぎ出した。さあ、一同、漕ぎ出そうではないか。海面も静かだし。
 反歌
 嶋傳 敏馬乃埼乎 許藝廻者 日本戀久 鶴左波尒鳴

389

 島伝ひ 敏馬の崎を 漕ぎ廻れば 大和恋しく 鶴さはに鳴く
 島伝いに敏馬の崎を漕いでいくと、群がって鳴き交わす鶴たちの声が故郷大和への恋しさをつのらせる。
 右謌、若宮年魚麻呂誦之。但、未作者

*1

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 ():声を出して、節をつけてよむ。そらんずる。

 この『万葉集』巻第3の「羈旅(たび)歌一首 并短歌」の388番・389番の左注に「若宮年魚麻呂()めり」とあり、また「作者は(つばひ)らかにせず」とある。注を付した菅原道真公が、若宮年魚麻呂作の歌だとは云っていない。

 『万葉集』巻第3の387番「仙柘枝歌」を詠んだ若宮年魚麻呂は、山国町吉野の人である。その若宮年魚麻呂が、瀬戸内海を旅して388番・389番歌を読んだのか?

 その388番・389番歌に詠まれている地名「淡路島」、「明石の門」、「敏馬の崎」は、「柿本朝臣人麿覊旅(たび)歌八首」の中でも詠まれている。

 (福永説)では、通説とは真逆に「柿本朝臣人麿覊旅(たび)歌八首」は、人麻呂が天智天皇の御供をして行橋の港から近畿へと瀬戸内海を東へ進みながら(歌番号の順に)詠まれているとした。これが、「天智天皇の瀬戸内巡行・往路」である。

 そして「天智天皇の瀬戸内巡行・帰路」の歌は、「柿本朝臣人麿の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌」と考えているが、2首しかない。

 したがって、388番・389番の「羈旅(たび)歌一首 并短歌」は、柿本人麻呂作の歌とも考えられる。そして、人麻呂は天智天皇の吉野宮への行幸にもお供している。その吉野で詠まれた歌が『万葉集』巻1の36番・37番歌があり、人麻呂が吉野へ出かけた時に若宮年魚麻呂と出会っていたと考えれば、人麻呂作の388番・389番歌を若宮年魚麻呂が、声を出して節をつけて詠んだ(()めり)との左注に書かれている事とも合う。

 以上が「若宮年魚麻呂と人麻呂の関係」である。