倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集④ 大伴旅人
(令和4年12月14日 於:小倉城庭園研修室)

 「 梅花歌(序文、822番)、還入故郷家即作歌 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第三 挽歌 451番〜453番 (旅人は大宰府から帰郷していた?)

 大伴旅人が、故郷の家に帰って詠んだ歌が、451番〜453番歌の3首である。大宰帥であった旅人が、故郷に帰ることがあったのでしょうか? 謎であるが、もし旅人が帰った故郷であるならば、香春の地だと思われる。

 旅人が、故郷香春に帰って詠んだ?
『万葉集』巻第三 挽歌
 入故郷家、即作歌三首
 人毛奈吉 空家者 草枕 旅尓益而 辛苦有家里

451

 人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり
 妻もいないがらんどうの家は旅の空にもまさって苦しいことであったよ。
 与妹為而 二作之 吾山齊者 木高繁 成家留鴨

452

 妹として ふたり作りし 我が山斎(しま)は 木高く茂く なりにけるかも
 妻と二人して作り上げた山水も今では木が高く茂っているよ。
 吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流

453

 我妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに 心()せつつ 涙し流る
 妻が植えた梅の木を見る毎に心のつまりむせる思いで涙の流れることだ。

 451番歌に詠まれている「もなき」の「人」は「妻」を指している。旅人は、妻の大伴郎女を伴って大宰府に赴任し、その大宰府の地でその妻は亡くなってしました。
 故郷に帰ってみると家は残っていたが、妻はいない「がらんどうの家」があるだけである。

 452番歌にある「山斎(しま)」は、池や小山のある庭園のことである。その庭園に妻と一緒に二人で植えた小さかった木が、今は高く茂っていると詠んでいる。

 大宰帥として赴任するまでは二人で住んでいた故郷の家に帰ってきた今は一人である。それが、なお悲しいのである。
 この歌は、題詞に年代が書かれていない為、何時詠まれた歌か分からない。また、左注もない。

 「万葉集」巻第三 挽歌 454番〜459番中の六首目  (万葉集の「黄葉」)

 大伴旅人が薨去(こうきょ)した年月が『万葉集』巻第三にある挽歌の題詞に残されている。

*1

 薨去(こうきょ):皇族や官位が三位(さんみ)以上の位を持つ人物が亡くなった場合に使われる言葉である。

 万葉集では「もみじ」は「黄葉」
『万葉集』巻第三 挽歌
 天平三年辛未。秋七月、大納言大伴卿薨之時歌六首

*1

 見礼杼不飽 伊座之君我 黄葉乃 移伊去者 悲喪有香

459

 見れど飽かず いましし君が 黄葉の うつりい行けば 悲しくもあるか
 見ても見ても見飽きることのない立派でいらした君が黄葉が散りゆくように去っていかれて悲しい。
 右一首、勅内礼正縣犬養宿祢人上、使護卿病。而醫藥無驗、逝水不留。因斯悲慟、即作此歌

 459番歌にある「黄葉(もみぢば)」の意味がやっと解けた。『万葉集』では、「もみじ」を「黄葉」と書く。『古今和歌集』以降の「もみじ」は、「紅葉」と書く。
 何故だろうと長年思っていた。これは、死者の住むとされる地下の世界を指す「黄泉(よみ)の国」という言葉とつながりがあった。
 この459番の挽歌で詠まれている「黄葉」のように「黄泉の国」を連想させるように使われれいる。

 大伴旅人の死を悲しむ挽歌が、六首残されている。