倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑫ 巻第二 85番〜90番 天智と天武
 (令和5年8月30日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第二 85番〜88番  (宇治天皇の皇后、髪長媛の歌四首)

 『万葉集』巻第二は、「相聞(そうもん)」で始まる。特に恋の歌が多い。

 冒頭の85番歌の題詞には、少し文字で「大鷦鷯天皇、謚曰仁徳天皇」とあるが、福永説の「真実の仁徳天皇」で唱えている通り大鷦鷯天皇は、仁徳天皇では無いので、取り消し線を入れてカットしている。
 その大鷦鷯天皇の皇后が、桓騎(かんき)の強い、ヤキモチ焼きな性格である磐姫皇后と書かれているが、これも違い宇治天皇の皇后である髪長媛皇后が、菟道稚郎子(後の宇治天皇)を思って詠まれた歌であるとした。

「万葉集」巻第二 相聞(そうもん) 85番〜88番
難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯(おほさざき)天皇、謚曰仁徳天皇
 磐姫(髪長媛)皇后思天皇御作歌四首
 君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待

85

 右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉。
 如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物呼

86

 在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日

87

 秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息

88

 86番歌に出てくる「高山」は、「たかやま」と詠ませているが、13番歌にある「高山」は、何故か「香具山(かぐやま)」と詠ませる。
 であるならば、『古事記』仁徳記に書かれている「高山」も「かぐやま」と読ませた。

真実の仁徳天皇
 是に天皇、高山(かぐやま)に登りて、四方の國を見たまひて詔りたまひしく、「國の中に烟()たず國皆貧窮す。故、今より三年に至るまで、悉に人民の課役(えつき)(ゆる)。」とのりたまひき。是を以ちて大殿破れ壊れて、悉に雨漏れども、(かつ)て脩理すること()く、(はこ)を以ちて其の漏る雨を受けて、漏らざる處に遷り避けましき。後に國の中を見たまへば、國に烟滿てり。故、人民富めりと(おも)ほして、今はと課役を(おほ)せたまひき。是を以ちて百姓榮えて、役使(えだち)に苦しまざりき。故、其の御世を(たた)へて、聖帝の世と謂ふなり。
『古事記』仁徳記

 宇治天皇が、3年後に2度目の国見の為に天香山(香春三ノ岳)に登られる。その時に髪長媛皇后が、お見送りする宇治天皇を想い詠まれた歌が、万葉集28番歌である。
 その宇治天皇が、天香山に登られて国見をした時に詠まれた歌が、万葉集2番歌であり、その長歌に対しその反歌が、15番歌であった。

 最初の国見をしてから『古事記』では、3年後に国見をしているが、『日本書紀』では、七年となって改竄されているので、訂正した。

真実の仁徳天皇
 三年(七年)夏四月に、(宇治)天皇、香山(臺)に登りまして、(はるか)に望みたまふに、烟氣(けぶり)(さは)()つ。是の日に、(髪長媛)皇后に語りて(のたま)はく、「朕、既に富めり。更に(うれへ)無し」とのたまふ。皇后、(こた)(まう)したまはく、「何をか富めりと(のたま)ふ」とまうしたまふ。天皇の曰はく、「烟氣、國に滿てり。(おほみ)(たから)(おの)づからに富めるか」とのたまふ。皇后、()(まう)したまはく、「宮垣壞れて、(をさ)むること得ず。殿屋(おほとの)破れて、(おほみそ)(おほみふすま)露にしほる。何をか富めりと(のたま)ふや」とまうしたまふ。天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、是れ百姓の爲になり。(しか)れば君は百姓を以て(もと)とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ()ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。(いま)()らじ、百姓富みて君貧しといふことは」とのたまふ。
『日本書紀 』仁徳紀(赤字の復元は福永) 

 この13番歌にある「中大兄(なかのおおえ)」は、お馴染みの天智天皇である。その三山歌というのは、(やまと)三山の歌であるから、「高山波」を万葉集では「かぐやま」と詠ませている。

「万葉集」巻第一 13番/14番
中大兄(近江宮御宇天皇)三山歌一首
 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉

13

 高山(たかやま)は 畝火を()しと 耳梨と 相争(あひあらそ)ひき (かみ)()より ()くにあるらし (いにしへ)も (しか)にあれこそ 虚蝉(うつせみ)も (つま)を争ふらしき
 高山(たかやま)(大鷦鷯天皇)は畝傍山(髪長媛)を愛しいと思い、耳梨山(菟道天皇)と争った。神代からこうであるらしい。昔もそのようであるからこそ、現世の人の世でも(他人の)妻を争うらしい。
 反歌
 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良

14

 香具山と 耳成山と ()ひし時 立ちて見に()し 印南(いなみ)国原(くにはら)
 香具山と耳成山とが争った時に、阿菩の大神が出雲を発って見に来た印南国原はここなのだなあ。

 この13番歌で詠まれている「高山」をそのまま「たかやま」と読める山が、行橋市にある「幸ノ山」である。
 歌にある高山は、大鷦鷯天皇の事であるが、「高山」とある場合には、「かぐやま」でもあるし、「たかやま」でもある事に気が付いた。この二重構造に気が付くまでに相当苦労した。

「写真(香春岳)」

 天香山(香春三ノ岳)

「写真(幸ノ山)」

 高山(行橋市  幸ノ山)

 五社八幡神社(大鷦鷯天皇の難波高津宮)より幸ノ山を望む

 福永説でいう偽物の仁徳天皇である大鷦鷯天皇が、宇治天皇の皇后である髪長媛に横恋慕(よこれんぼ)し、宇治天皇を自分の土地でも国見をして欲しいと行橋市の高山(幸ノ山)まで誘い出した。
 その宇治天皇が、三度目の国見をして高山から下山したところをある建物に閉じ込めて撲殺してしまったらしい。
 そして、非常に別嬪(べっぴん)だと聞いていた髪長媛を奪い取ったのである。その歌が、『日本書紀』仁徳紀に残されている下記の歌謡である。

 歌謡でわかるように大鷦鷯天皇は、髪長媛の美しさを知らない。「恐ろしいほど美しいと噂が高かった」と詠まれている。そして、大鷦鷯天皇は、異母弟である宇治天皇を殺害してまで髪長姫を奪い取って有頂天になっている。
 ハッキリ言って、これは下種(げす)な歌である。この歌を詠まれ大鷦鷯天皇が、「(たみ)のかまど」を本当に心配なされた仁徳天皇でしょうか? 歌に詠まれた内容は、絶対に合わない。大鷦鷯天皇の人格は、「仁徳」ではない。通説でいう「仁徳天皇」であれば、二重人格である。
 宇治天皇が「真実の仁徳天皇」であり、大鷦鷯天皇に殺されたという事がわかった。

古波(こは)()嬢女(をとめ)」は、誰?
 大鷦鷯尊、與髮長媛既得交慇懃。獨對髮長媛歌之曰、
 彌知能之利 古破儾塢等綿塢 伽未能語等 枳虛曳之介逎 阿比摩區羅摩區
又歌之曰、
 瀰知能之利 古波儾塢等綿 阿羅素破儒 泥辭區塢之敘 于蘆波辭彌茂布
 『應神天皇紀』
 (みち)(しり) 古波儾(こはだ)嬢女(をとめ)を 神の(ごと) 聞えしかど (あひ)(まくら)()
 遠い国の古波儾嬢女は、恐ろしいほど美しいと噂が高かったが、今は私と枕をかわす仲になった。
 道の後 古波儾嬢女 (あらそ)はず ()しくをしぞ (うるは)しみ()
 遠い国の古波儾嬢女が、逆らわずに一緒に寝てくれたことをすばらしいと思う。
 こはだをとめ(木幡(こはた)村の嬢女)=髪長媛皇后  
 ()の国(木幡村)は、宇治に同じ。『風土記逸文』
 現在の香春町古宮の地。

 歌に詠まれた「古波儾嬢女(こはだをとめ)」が、髪長媛皇后であるという事が、『山城國  風土記』から分かる。宇治天皇が宮を造った地「宇治」が、「()の國」とある。「許の国」の「端」あるいは「傍」にある村が、「木幡(こはた)村」である。
 したがって、「古波儾嬢女」は、「木幡(=宇治宮)の嬢女」、つまり宇治天皇の皇后である髪長媛を指していた。
 また、『古事記』應神天皇記の中の「故、到木幡村之時、麗美孃子、遇其道衢」にある木幡村こそ宇治天皇の父應神天皇と母宮主宅媛(みやぬしやかひめ)が出会った村であり、現在の香春町古宮の地である。

 巻第二の85番〜88番歌の復習である。この連作四首は、唐詩に見られる「起承転結」の構成を採っている。

 「」に当る85番は、「宇治天皇の高山からのご還御が遅いのを不安にお思いになる。
 その85番歌を解釈した中に「(たかやま)に国見をなさりに行遊ばされ」とあるように高山は、現在、行橋市では「幸ノ山」と呼ばれている。

 「」の86番歌で、「宇治天皇の突然の死を嘆き悲しみ、共に身罷(みまか)ろうとされる。

「万葉集」巻第二 相聞(そうもん) 85番〜88番
 君が行き ()(なが)くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ

85

【新解釈】
 大鷦鷯皇子に誘われ申し上げなさって、わが君((宇治天皇))高山に国見をなさりに行幸遊ばされました。その行幸の日数があまりに長うなりました。わが君の御身に何かあったのか心配でなりません。高山を訪ねてお迎えに上がりましょうか。それともご無事を信じて、ここ比良の宮でじっと我慢してわが君のお帰りをお待ちしましょうか。どうか、ご無事にお帰 りくださいませ。
 かくばかり ()ひつつあらずは 高山(たかやま)の 磐根(いはね)()きて 死なましものを

86

【新解釈】
 このように薨去なさったわが君を恋い慕ってばかりいないで、いっその事、わが君が最後に行幸なされた高山まで行き、その高山の岩根を枕にしてわが君の後を追って死にましょうものを。

 「」の87番歌で、「宇治天皇の死の真相を知り、一転して生き続けることを決意される。
 だから、上記の『日本書紀』仁徳紀の歌謡が残されている。

「万葉集」巻第二 相聞(そうもん) 85番〜88番
 ありつつも 君をば待たむ 打ち(なび)く わが黒髪に 霜の置くまでに
   「霜乃置萬代日

87

【新解釈】
 いいえ、わが君のご無念を思えば、生き続けてでも、寿命の尽きる時に黄泉の国から私をお招きくださるであろうわが君をばお待ちいたしましょう。今はなよなよと打ち靡く、私のこの黒髪が白くなるまで、遠い先の日までわが君を恋い慕い続けてお待ち申し上げます。
「髪長媛」

 起承転結の「」に当る四首目の88番歌で「宇治天皇への愛情を抱き続けながらも、自らの暗い運命を嘆かれる。

「万葉集」巻第二 相聞(そうもん) 85番〜88番
 秋の田の 穂上(ほのへ)(きら)ふ 朝霞 何時邊(いつへ)(かた)に 我が(こひ)()まむ

88

【新解釈】
 秋の田の刈穂を屋根に葺いて、わが君と雨漏りのする宇治の宮で過ごした幸せな三年間が思い出されてなりません。わが君の亡くなられた今年の秋の田の穂の上にかかっている朝霞のように悲しみに沈んだ我が胸中、朝霞はいつか、片方に晴れて行きましょうが、狭霧のまん中に閉じられたような私の恋心は、いつどこでやむことでしょうか。それはきっと、私の寿命の尽きる時、わが君と彼岸で再会し申し上げるときのことでしょう。その日まで私は幾多の苦難をも耐え忍びましょう。

 88番歌の冒頭「秋の田の」からも分かるように、百人一首の一番歌、天智天皇の「秋の田の かりほの(いほ)の (とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」も仁徳天皇(宇治天皇)の故事がモデルである。