倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑭ 巻第二 105番〜110番 大津皇子・悲運の皇子
 (令和5年10月25日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第二 相聞 105番〜110番  (悲運の大津皇子に纏わる歌)

 今回は、一人の人物を取り上げる。悲運の皇子、大津皇子である。左側の大津皇子像の写真であるが、何処にある薬師寺蔵か不明である。右側は、大津皇子の辞世の歌の場面を描いた絵である。

 悲運の大津皇子
「写真(大津皇子)」

大津皇子像(薬師寺蔵)

「写真(大津皇子)」

大津皇子の辞世の句の場面

 下記の系図から判るように天智天皇の皇女に鵜野讃良(うののさらら)皇后(のちの持統天皇)と太田皇女がいる。二人の皇女とも天武天皇に嫁いでいる。
 天武天皇と太田皇女の間に誕生したのが、大津皇子である。その大津皇子の姉が、大伯(おおく)皇女(大来皇女)である。そして、凄いのは大津皇子は、天智天皇の皇女である山辺皇女と結婚している。
 天武天皇と持統天皇の間に誕生したのが、草壁皇子である。こちら草壁皇子が、皇太子になった。この大津皇子と草壁皇子との関係を『万葉集』の歌から読み解いていく。

     ┌─────────  山辺皇女
     │           ┃
     │  (持統天皇の姉)   ┃
     ├─  太田皇女       ┃
     │   ┃       ┃
     │   ┃       ┃
     │   ┠───┬─  大津皇子
     │   ┃   │
     │   ┃   │
天智天皇  ⏊  天武天皇   └─  大伯(おおく)皇女
     │   ┃      (大津皇子の姉)
     │   ┃
     │   ┠─────  草壁皇子
     │   ┃
     │   ┃
     └─  持統天皇 鵜野讃良(うののさらら)皇后)

 今回の大津皇子の歌を読み解いていく為には、藤原宮が何処にあったかを認知しておかなければ解けない。その藤原宮は、奈良県ではなく行橋市にあった。
 下記の写真は、東九州自動車道の建設中に発見された行橋市の福原長者原遺跡である。発掘された遺跡からは、Ⅰ期大溝Ⅱ期大溝が見つかっている。
 壬申の乱の後、天武天皇が造られた飛鳥浄御原宮(赤村大原の貴船神社)から新宮殿を造り遷られた宮が藤原宮であり、この福原長者原遺跡である。飛鳥板葺宮と考えているⅠ期大溝跡と同じ処に少し拡張して造られたⅡ期大溝跡が、藤原宮と考えている。

藤原宮跡?
「写真(遺構)」
 Ⅰ期の遺構が、飛鳥板葺宮跡。Ⅱ期の以降が、藤原宮跡と推定。

福原長者原(官衙(かんが))遺跡(行橋市)

 大津皇子の歌の解釈は、藤原宮が福原長者原遺跡であるという前提で成立する。最初に大津皇子の生涯は、以下の通りである。

 大津皇子の生涯(1/2)
 663年(天智天皇2年)、九州の那大津(なのおおつ)で誕生。『日本書紀』によれば天武天皇の第3皇子とされる(『懐風藻(かいふうそう)』では長子とされる)。
 『懐風藻』によると「状貌(じょうぼう)魁梧(かいご)器宇(きう)峻遠(しゅんえん)、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を(しょく)す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩(ほうとう)にして、法度(はっと)(かか)わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」(体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた)とある。『日本書紀』にもおなじ趣旨の讃辞が述べられており、抜群の人物と認められていたようである。
 母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良(うののさらら)皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に薨去し、姉の(おお)()皇女も斎女(さいじょ)とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。

*1

懐風藻(かいふうそう)』は、現存する最古の日本漢詩集。

*2

大来皇女(おおくのひめみこ)』は、大伯皇女とも書く。天武天皇の皇女。母は、天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)。大津皇子の同母姉になる。

 大津皇子の生涯(2/2)
そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。
 683年(天武天皇12年)2月に朝廷の政治に参加。この「始聴朝政」という大津の政治参加を示す文句については様々なとらえ方があるが、『続日本紀』に皇太子である(おびと)親王(聖武天皇)の政治参加におなじ用語を使っていることからみると、草壁と匹敵する立場に立ったと理解するのが妥当だと思われる。しかし、当時まだ年少だった長皇子(ながのみこ)舎人(とねり)親王などを除けば、血統的に草壁と互角だった大津の政治参加は、一応は明確になっていた草壁への皇位継承が半ば白紙化した事を意味した。
 686年(朱鳥(あかみとり)元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24。
 『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。また、『万葉集』の題詞には薨去の直前に、姉である大来(おおく)皇女が斎王(さいおう)を務めている伊勢神宮へ向かったとある。
               (ウィキペディア)

*3

朱鳥(「あかみとり)』は、一般的には「しゅちょう」と読まれるが、本来の読み方は「あかみとり」である。

*4

斎王(さいおう)』は、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。

 大津皇子に関係する『万葉集』巻第二を107番・108番・110番・109番・105番・106番の順でストーリー性を考えた上で説明していく。
 最初の107番歌は、相聞歌である。草壁皇子と大津皇子が、石川郎女(いしかわのいらつめ)を挟んでの三角関係にあったとされている。107番と108番歌が、大津皇子と石川郎女の相聞歌である。

 石川郎女(いしかわのいらつめ)との三角関係
 大津皇子贈石川郎女御歌一首
 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二

107

 あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに
 山の雫に濡れながら妹を待って立っていました。山の雫に濡れながら。
 石川郎女奉(こたへ)歌一首
 吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎

108

 ()を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
 私を待ってあなた様が濡れているという山の雫。その山の雫に私はなりたいものです。

 次が、110番の日並皇子(ひなみしのみこ)(草壁皇子)の歌である。女郎(いらつめ)は、字を大名兒(おおなご)と曰うとある。この110番歌で草壁皇子が石川女郎に詠んでおり、先の107番歌で大津皇子が石川女郎に詠んでいる。異母兄弟二人が一人の女性を想う歌を詠んでいる。

 110番歌の次に説明する109番が、変な歌である。註にも「いまだ(つまび)らかならず」とある。109番歌の歌が詠まれた時は、まだ、大津皇子が謀反の疑いを掛けられてはいなかったと思う。

 石川郎女(いしかわのいらつめ)との三角関係
 日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首
 (女郎字曰大名兒也)
 大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八

110

 (おほ)名児(なご)彼方(をちかた)野辺(のべ)に 刈る草の (つか)(あひだ)も 我れ忘れめや
 大名兒が彼方の野辺で草を刈って束にしている。その草束ではないが、束の間も彼女のことが忘れられようか。
 大津皇子(ひそか)石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作歌一首 未
 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之

109

 大船(おおふね)津守(つもり)(うら)()らむとは まさしに知りて 我がふたり()
 津守(人名)の占いによって(謀反の疑いが)あらわれるとはまさに承知しながら、私は彼女と共寝したよ。

 その次が、『万葉集』巻第二の順では先に出てくる105番・106番歌で、大津皇子が謀反の疑いを掛けられ、伊勢神宮へ行く時の同母姉である大来皇女(おおくのひめみこ)が詠まれた歌である。

 謀叛直前、伊勢神宮へ
 大津皇子(ひそか)於伊勢神宮上来時、大伯皇女御作歌二首
 吾勢祜乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之

105

 我が背子(せこ)(やまと)()ると さ夜更(よふ)けて (あかとき)露に 我れ立ち濡れし
 弟皇子を倭に見送る夜、夜が更けて暁になるまで、私は立ちつくし、露に濡れました。
 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武

106

 ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
 二人で越えても難渋する秋の山をあなたはたった一人で越えていることでしょうか。

 105番歌の「我が背子」は、同母弟に大津皇子である。句末の「我れ立ち濡れし」とあるには、が掛かっているように思える。
 大津皇子が、伊勢斎宮である姉の大来皇女と会った時には、政治的に相当に追い詰められていたと考えられる。姉の大来皇女は、弟の大津皇子が捕らえられて殺されるのではないかという緊迫感が歌に詠まれている。
 再び会えるという状況であれば、「私は立ちつくし、露に濡れました」という詠い方はしない。

 次の106番歌の句末の「ひとり越ゆらむ」の「らむ」は現在推量の助動詞で、姉の大来皇女の気持ちをよく表している。
 「今頃、たった一人で超えているだろうか。」と。実際には、弟の大津皇子の姿は、目の前には見えていないのである。この歌で詠まれた内容から、大来皇女が大津皇子の事を非常に心配している事がわかる。

 この105・106番歌の題詞にある伊勢神宮」が何処のあったのか? とした時に京師の藤原宮を行橋市にある福原長者原遺跡の地としている。
 この時に姉の大来皇女は、伊勢神宮の斎皇女(いつきのみこ)となっている。通説では、現在の三重県の伊勢神宮であるが、福原長者原遺跡からさほど遠くない場所でないと成り立たない。
 天照大神を祀る神社として、宮若市磯光に鎮座する天照神社が大本の伊勢神宮という事になるが、福原長者原遺跡(藤原宮)からでは少し距離がある。もう少し近い場所を探した結果、苅田町の白庭神社(御所山古墳)が見つかった。
 天照神社の祭神は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」の一柱の神に対して、白庭神社では、「天照國照彦天火明命、櫛玉命、饒速日命」と三柱の神になっているが、天照大神を祀る神社で、この白庭神社が、この時の伊勢神宮である。

 伊勢神宮は何処か

 白庭神社(御所山古墳)

【鎮座地】
苅田町大字与原(よばる)
御所山(ごしょやま)868番地
【御祭神】
 天照國照彦天火明命
 櫛玉命、饒速日命

 大己貴(おおなむち)命、罔象女(みずはのめ)
地図「白庭神社(御所山古墳)」
「白庭神社(御所山古墳)」
「白庭神社(御所山古墳)」

 「万葉集」巻第三 挽歌 416番  (磐余の池は、みやこ町勝山黒田辺りか?)

 次が、巻第三の416番に飛ぶ。大津皇子が、朱鳥元年冬十月に死を賜る。

 『日本書紀』持統天皇紀に「朱鳥元年冬十月庚午、(みまからしむ)皇子大津於譯語田(おさだ)。時年廿四。」とあり、父天武天皇が崩御し持統天皇が権力を掌握する家庭の中で一番邪魔な大津皇子が除外されたと考えるのが妥当であろう。
 また、『万葉集』の他に大津皇子の辞世の詩(漢詩)も『懐風藻』の中にもある。その題名が、「臨終」である。

 大津皇子被死之(みまからしめらゆる)
 大津皇子死之時、磐余池(つつみ)(なみだ)御作歌一首
 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟

416

 百伝ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 磐余の池に鳴く鴨 を見納めにして私は あの世に旅立とう。
 右、藤原宮朱鳥元年 冬十月。
『懐風藻』
 臨終
金烏臨西舎 (金() 西()に臨み)
鼓声催短命 (鼓() 短命を(うなが)す)
泉路無賓主 (泉路(よみ) 賓主無し)
此夕誰家向 (この夕 ()が家にか向ふ)
「写真(大津皇子)」

 詩の内容は、大津皇子が自殺した内容ではなく、処刑されたと思われる。

 持統天皇は、子草壁皇子を天皇にする為に姉太田皇女の子であり、持統天皇からみれば、甥にあたる大津皇子を殺害した。持統天皇の権力は強い。
 草壁皇子を皇太子として、即位させる為に日本書紀にも書かれているように人望のある大津皇子が邪魔だったという事が見えてくる。

*5

賜死(しし)』は、死刑の一種。君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じることを指すが、単純に君主の命令(王命)による死刑を賜死と呼ぶこともある。

 歌の中に出てくる「磐余(いわれ)の池」であるが、『日本書紀』仁徳天皇紀に「十三年冬十月、造和珥池。是月、築横野堤」とある記事の古代のダム跡が、みやこ町から見つかった池田遺跡である。この池は、西暦400年代、大鷦鷯天皇の時代に築かれたダムで王仁が百済から連れてきた人たちの中に土木技術者がいて、その技術が用いられた。池田遺跡からは、実際に取水施設で使われていた木栓が出土している。
 だとすれば、「磐余の池」もみやこ町から行橋市にかけて(旧京都(みやこ)郡)の何処かに造られていたと考えられる。

 池田遺跡は
 和珥池 + 横野堤

池田遺跡周辺
木栓

木栓

取水施設の概略

Ⓒ西日本新聞(みやこ町歴史民俗博物館)

 下記のみやこ町勝山黒田付近の遺跡地図の中の何処かに「磐余の池」が造られていたと考えられる。地図内の赤丸(●)は、すべて古墳(墓)であり、凄い地図である。

磐余(いはれ)の池」は、この辺りにあったか?

 みやこ町勝山黒田付近の遺跡図

みやこ町勝山黒田周辺の遺跡図

   池田遺跡

 綾塚古墳(推古天皇の科長(しなが)大陵)

 庄屋塚古墳訳語田(おさだ)天皇の磯長(しなが)陵)

 綾塚古墳の裏山には、約100年間に1000基の墓が造られている。多分、飛鳥時代の皇族の墓であるが、今のところ全て未発掘である。

 「万葉集」巻第二 挽歌 163番〜166番  (二上峯は、苅田町にあった)

 163番・164番は、巻第二の挽歌に分類される歌である。
 163番歌にある「伊勢の国」が、前述の105番・106番の「伊勢神宮」と関係してくる。

 大津皇子薨去後
 大津皇子薨之後、大来皇女従伊勢齊宮(いつきのみや)京之時御作歌二首
 神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓

163

 神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか()けむ 君もあらなくに
 神風の吹く伊勢の国にいてもよかったのに、どうして私はここ藤原宮にやってきたのでしょう。あなたもいないのに。
 欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓

164

 見まく()り 我がする君も あらなくに 何しか()けむ 馬疲(うまつか)るるに
 会いたいと思うあなたもいないのに、どうして私はやってきたのでしょう。馬が疲れるだけなのに。
 移葬大津皇子屍於葛城二上山
 葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作歌二首
 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

165

 うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上(ふたかみ)山を 弟背(いろせ)と我が見む
 この世の人である私。明日からは二上山を私の弟と思って見ることになります。
 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

166

 磯の上に ()ふる馬酔木(あせび)手折(たを)らめど 見すべき君が 在りと言はなくに
 磯の上に生える馬酔木(あせび)の花を手折ろうと思うが、見せるべきあなたはいない。
 右一首今案、不移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。

 166番歌の冒頭に「之於尓」とあるが、現在の三重県にある伊勢神宮から奈良県桜井市の藤原宮までの間は、山道ばかりであり、海・「」など無い。
 だから、菅原道真公は、左注に「路上見花(路の(ほとり)に花を見て)」と書いている。だが、福永説の伊勢神宮がまだ九州の地(苅田町の白庭神社)にあれば、藤原宮(行橋市の福原長者原遺跡)までの道は、海が近い。

 大津皇子の屍が移され埋葬された「葛城二上山」は、何処か?という問題である。写真が、近畿にある葛城二上山である。

「二上山」

 二上山(大阪府南河内郡太子町山田)

「馬酔木(あせび)」

 馬酔木(あせび)

「二上山墓」

 二上山墓(奈良県葛城市染野)

「鳥谷口古墳」

 鳥谷口古墳(奈良県葛城市染野)

*6

馬酔木(あせび)」は「あしび」とも呼ぶ。壷形の花をいっぱい咲かせる。色は、うす紅色のものと白色のものがある。かすかに香る。枝葉に「アセボチン」という有毒成分を含んでいる。
 馬が食べると酔って足がなえることから「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、しだいに変化して「あしび」そして「あせび」となった。漢字の「馬酔木」もその由来による。また、このことから、葉を煎じたものは殺虫剤としても使われている。

※  豊国の万葉集⑮ 巻第二 126番〜129番 
 (令和5年11月22日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)時の冒頭で追加説明。

 苅田町にある白庭神社(御所山古墳)が伊勢神宮だとすると、ここから近い場所にある二上峯を苅田町の中で見つけた。
 狭間畏三の著書「神代帝都考」の中の絵図に「二上峯」が描かれていた。京峠(京都(みやこ)峠)の近くにあった。現在は、片側の峯が石灰岩を採取する為に削られてしまった。一上峯の形となってしまった。だから、今まで二上峯を見つけきらなかったが、明治時代の「神代帝都考」にある絵図には、ハッキリと二上峯が描かれているので判った。

 京師が近畿の地への大遷都が行われた際に、ここの二上峰にあった大津皇子の墓も上記の奈良県にある二上山墓に改葬されたという可能性が出てきた。
 大阪府南河内郡太子町山田の二上山は、万葉集に詠われた二上峯に似せた山である。

「二上山」
「神代帝都考」

 「神代帝都考」(狭間畏三著)

白庭神社(伊勢神宮)