倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第二 相聞 105番〜110番 (悲運の大津皇子に纏わる歌)
今回は、一人の人物を取り上げる。悲運の皇子、大津皇子である。左側の大津皇子像の写真であるが、何処にある薬師寺蔵か不明である。右側は、大津皇子の辞世の歌の場面を描いた絵である。
下記の系図から判るように天智天皇の皇女に鵜野讃良皇后(のちの持統天皇)と太田皇女がいる。二人の皇女とも天武天皇に嫁いでいる。
天武天皇と太田皇女の間に誕生したのが、大津皇子である。その大津皇子の姉が、大伯皇女(大来皇女)である。そして、凄いのは大津皇子は、天智天皇の皇女である山辺皇女と結婚している。
天武天皇と持統天皇の間に誕生したのが、草壁皇子である。こちら草壁皇子が、皇太子になった。この大津皇子と草壁皇子との関係を『万葉集』の歌から読み解いていく。
大津皇子の歌の解釈は、藤原宮が福原長者原遺跡であるという前提で成立する。最初に大津皇子の生涯は、以下の通りである。
*1
『懐風藻』は、現存する最古の日本漢詩集。
*2
『大来皇女』は、大伯皇女とも書く。天武天皇の皇女。母は、天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)。大津皇子の同母姉になる。
*3
『朱鳥』は、一般的には「しゅちょう」と読まれるが、本来の読み方は「あかみとり」である。
*4
『斎王』は、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。
大津皇子に関係する『万葉集』巻第二を107番・108番・110番・109番・105番・106番の順でストーリー性を考えた上で説明していく。
最初の107番歌は、相聞歌である。草壁皇子と大津皇子が、石川郎女を挟んでの三角関係にあったとされている。107番と108番歌が、大津皇子と石川郎女の相聞歌である。
107
108
次が、110番の日並皇子(草壁皇子)の歌である。女郎は、字を大名兒と曰うとある。この110番歌で草壁皇子が石川女郎に詠んでおり、先の107番歌で大津皇子が石川女郎に詠んでいる。異母兄弟二人が一人の女性を想う歌を詠んでいる。
110番歌の次に説明する109番が、変な歌である。註にも「いまだ詳らかならず」とある。109番歌の歌が詠まれた時は、まだ、大津皇子が謀反の疑いを掛けられてはいなかったと思う。
110
109
その次が、『万葉集』巻第二の順では先に出てくる105番・106番歌で、大津皇子が謀反の疑いを掛けられ、伊勢神宮へ行く時の同母姉である大来皇女が詠まれた歌である。
105
106
105番歌の「我が背子」は、同母弟に大津皇子である。句末の「我れ立ち濡れし」とある露には、涙が掛かっているように思える。
大津皇子が、伊勢斎宮である姉の大来皇女と会った時には、政治的に相当に追い詰められていたと考えられる。姉の大来皇女は、弟の大津皇子が捕らえられて殺されるのではないかという緊迫感が歌に詠まれている。
再び会えるという状況であれば、「私は立ちつくし、露に濡れました」という詠い方はしない。
次の106番歌の句末の「ひとり越ゆらむ」の「らむ」は現在推量の助動詞で、姉の大来皇女の気持ちをよく表している。
「今頃、たった一人で超えているだろうか。」と。実際には、弟の大津皇子の姿は、目の前には見えていないのである。この歌で詠まれた内容から、大来皇女が大津皇子の事を非常に心配している事がわかる。
この105・106番歌の題詞にある「伊勢神宮」が何処のあったのか? とした時に京師の藤原宮を行橋市にある福原長者原遺跡の地としている。
この時に姉の大来皇女は、伊勢神宮の斎皇女となっている。通説では、現在の三重県の伊勢神宮であるが、福原長者原遺跡からさほど遠くない場所でないと成り立たない。
天照大神を祀る神社として、宮若市磯光に鎮座する天照神社が大本の伊勢神宮という事になるが、福原長者原遺跡(藤原宮)からでは少し距離がある。もう少し近い場所を探した結果、苅田町の白庭神社(御所山古墳)が見つかった。
天照神社の祭神は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」の一柱の神に対して、白庭神社では、「天照國照彦天火明命、櫛玉命、饒速日命」と三柱の神になっているが、天照大神を祀る神社で、この白庭神社が、この時の伊勢神宮である。
「万葉集」巻第三 挽歌 416番 (磐余の池は、みやこ町勝山黒田辺りか?)
次が、巻第三の416番に飛ぶ。大津皇子が、朱鳥元年冬十月に死を賜る。
『日本書紀』持統天皇紀に「朱鳥元年冬十月庚午、賜二死皇子大津於譯語田舍一。時年廿四。」とあり、父天武天皇が崩御し持統天皇が権力を掌握する家庭の中で一番邪魔な大津皇子が除外されたと考えるのが妥当であろう。
また、『万葉集』の他に大津皇子の辞世の詩(漢詩)も『懐風藻』の中にもある。その題名が、「臨終」である。
詩の内容は、大津皇子が自殺した内容ではなく、処刑されたと思われる。
持統天皇は、子草壁皇子を天皇にする為に姉太田皇女の子であり、持統天皇からみれば、甥にあたる大津皇子を殺害した。持統天皇の権力は強い。
草壁皇子を皇太子として、即位させる為に日本書紀にも書かれているように人望のある大津皇子が邪魔だったという事が見えてくる。
*5
『賜死』は、死刑の一種。君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じることを指すが、単純に君主の命令(王命)による死刑を賜死と呼ぶこともある。
歌の中に出てくる「磐余の池」であるが、『日本書紀』仁徳天皇紀に「十三年冬十月、造二和珥池一。是月、築二横野堤一。」とある記事の古代のダム跡が、みやこ町から見つかった池田遺跡である。この池は、西暦400年代、大鷦鷯天皇の時代に築かれたダムで王仁が百済から連れてきた人たちの中に土木技術者がいて、その技術が用いられた。池田遺跡からは、実際に取水施設で使われていた木栓が出土している。
だとすれば、「磐余の池」もみやこ町から行橋市にかけて(旧京都郡)の何処かに造られていたと考えられる。
下記のみやこ町勝山黒田付近の遺跡地図の中の何処かに「磐余の池」が造られていたと考えられる。地図内の赤丸(●)は、すべて古墳(墓)であり、凄い地図である。
綾塚古墳の裏山には、約100年間に1000基の墓が造られている。多分、飛鳥時代の皇族の墓であるが、今のところ全て未発掘である。
「万葉集」巻第二 挽歌 163番〜166番 (二上峯は、苅田町にあった)
163番・164番は、巻第二の挽歌に分類される歌である。
163番歌にある「伊勢の国」が、前述の105番・106番の「伊勢神宮」と関係してくる。
163
164
165
166
166番歌の冒頭に「礒之於尓」とあるが、現在の三重県にある伊勢神宮から奈良県桜井市の藤原宮までの間は、山道ばかりであり、海・「礒」など無い。
だから、菅原道真公は、左注に「路上見花(路の上に花を見て)」と書いている。だが、福永説の伊勢神宮がまだ九州の地(苅田町の白庭神社)にあれば、藤原宮(行橋市の福原長者原遺跡)までの道は、海が近い。
大津皇子の屍が移され埋葬された「葛城二上山」は、何処か?という問題である。写真が、近畿にある葛城二上山である。
*6
「馬酔木」は「あしび」とも呼ぶ。壷形の花をいっぱい咲かせる。色は、うす紅色のものと白色のものがある。かすかに香る。枝葉に「アセボチン」という有毒成分を含んでいる。
馬が食べると酔って足がなえることから「足癈」と呼ばれ、しだいに変化して「あしび」そして「あせび」となった。漢字の「馬酔木」もその由来による。また、このことから、葉を煎じたものは殺虫剤としても使われている。
※ 豊国の万葉集⑮ 巻第二 126番〜129番
(令和5年11月22日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)時の冒頭で追加説明。
苅田町にある白庭神社(御所山古墳)が伊勢神宮だとすると、ここから近い場所にある二上峯を苅田町の中で見つけた。
狭間畏三の著書「神代帝都考」の中の絵図に「二上峯」が描かれていた。京峠(京都峠)の近くにあった。現在は、片側の峯が石灰岩を採取する為に削られてしまった。一上峯の形となってしまった。だから、今まで二上峯を見つけきらなかったが、明治時代の「神代帝都考」にある絵図には、ハッキリと二上峯が描かれているので判った。
京師が近畿の地への大遷都が行われた際に、ここの二上峰にあった大津皇子の墓も上記の奈良県にある二上山墓に改葬されたという可能性が出てきた。
大阪府南河内郡太子町山田の二上山は、万葉集に詠われた二上峯に似せた山である。