倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第二 挽歌 147〜155番 (天智天皇の挽歌)
万葉集から日本書紀を読み直している結果、日本書紀が嘘を書いているという事から始まった。『扶桑略記』第五の天智天皇九年の記事と『日本書紀』天智天皇紀の記事とは、全く違っている。
天智紀では、天智十年に病気で亡くなったと書かれているが、扶桑略記では、馬に乗って山階郷に出かけて、返らなかった。そして、山林の何処で亡くなったか分からないと書かれている。
さらに注に沓が落ちていた処を山陵とした。これが、現在京都市にある天智天皇の山科陵である。その山科陵が、豊国から改葬された陵であるならば、沓だけしか埋葬されていない。これが、歴史上の事実であろう。
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日本で一番有名な沓塚が、下記の写真にある織幡神社境内の武内宿祢の沓塚である。ここが、扶桑略記に書かれた天智天皇の沓が落ちていた山階郷だと考えた。
織幡神社は、写真で示すように山の中にある神社である。天智天皇は、この山の中に入って行かれて帰ってこなかった。そして、沓だけが落ちていた。
何故、沓だけ残して、還ってこなかったのか? 壬申の乱で大海人皇子の軍に敗れた天智天皇は、ここ織畑神社の裏の崖から、玄界灘へ入水自殺をした。現代でも入水自殺される方は、靴を残して入水自殺される。
万葉集に入っていくが、題詞に「近江大津宮御宇天皇代(天命開別天皇、謚曰二天智天皇一) 」とある天智天皇に関する147番から155番の九首は、巻第二の中で「挽(謌)歌」の所に載っている。万葉集の中で、挽歌だと断わってある。
最初に取り上げる147番が、変である。題詞に「不豫」とある。この言葉は、天皇の病気だという事である。しかし、歌の内容は、天皇が天に上られたとある。
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148番も題詞と歌の内容が合っていない。歌の通釈でも「御霊」とある。人が亡くなって、その魂が神となったのであるから、病気ではおかしい。
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「青旗の木幡」を『扶桑略記』の内容から「山科の青旗のような木幡」と訳し、この木幡は、織幡神社の処(木幡山)だと考えた。
149番は、倭太后が、玉葛(老懸)が付いている冠を被った生前の天智天皇のお姿を偲ばれて詠った歌で、正しく挽歌である。
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150番の作者は、未詳である。天智天皇の妃の一人か?
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151番は、額田王が万葉集の中で詠った天智天皇の挽歌である。
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地元では、「御館」を「みたて」と読む。田川市の国道201号線に「見立」という交差点がある。漢字は違うが、「見立(みたて)」である。見立という字には、「見送りする」という意味がある。
「御館(みたち)」という場所は、人麻呂や額田王らが、天智天皇を見送った(送別した)場所だった。
152番の作者、舎人吉年は、未詳の人物である。万葉集の中では、二首に出てくるが、日本書紀には登場しない人物である。
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152番歌は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」の反歌・30番歌と非常に酷似している。
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「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」は、表向きは4世紀の神功皇后軍が忍熊王軍を攻めて、忍熊王を入水自殺に追い込んだ時の事件を詠んでいる。30番・31番の歌にある「大宮人」は、忍熊王である。
主君・天智天皇は、壬申の乱に敗れ入水自殺された。しかし、人麻呂は、壬申の乱後の天武天皇の御世では、公に天智天皇の挽歌を詠う事が出来ない。
だから、4世紀に天智天皇と同じように入水自殺をされた大君(忍熊王)がいらした事件を歌に詠いあげながら、天智天皇の挽歌を詠んだ。
30番歌にある「思賀の辛碕を出た大宮人」は、天智天皇である。磐瀬行宮(中間市の御館山の処)を出て行った天智天皇を嘆いた。通説では、人麻呂は天皇の挽歌を詠んでいない賭されているが、この歌が二重構造ではあるが、明らかに天智天皇の挽歌を詠んでいると言ったのである。
153番歌の枕詞「鯨魚取」を通説の解釈は、入れずに「近江の海(琵琶湖)」としているが、絶対に鯨のいない琵琶湖の歌では無い。福永説の解釈では、「鯨魚取」の枕詞を取り入れて、「淡海乃海」は、古遠賀湾か玄界灘とした。
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153番歌で、天智天皇が入水自殺したという事が極め付けてわかる。まだ、天智天皇の沓だけが残されていて、遺骸が見つかっていない。歴史書である『扶桑略記』に書かれた内容とこの『万葉集』の歌で詠まれた歴史的な内容とが、合ってくる。
だから、日本書紀では、天智天皇は壬申の乱前に病死されたと書かれているが、福永説の壬申の乱で天智天皇と大海人皇子(のちの天武天皇)が直接戦って敗れたというは、この万葉集が起点となっている。
153番歌にある「鯨魚取り 淡海の海」というのは、磐瀬行宮(中間市御舘山)の処の海(古遠賀湾)だったかも知れない。
154番歌に「楽浪」とあるから、古遠賀湾に面した処で詠まれた歌である。
154番歌の「楽浪」の通釈は、「近江大津京のお山」としているが、福永説は、「磐瀬行宮(中間市御舘山)」とした。
155番歌は、「山科御陵」で額田王が詠まれた歌である。
織幡神社の境内には、天智天皇が入水自殺された時に残された沓を納めた沓塚がある。この織畑神社は、写真にあるように山の中にある。額田王が詠まれた155番歌の中には「山科の
鏡の山」とあるからには、織畑神社がある山は、「鏡山」である。そして、この地が、扶桑略記に書かれている天智天皇が山林に入り行方がわからなくなった「山階郷」である。
この織幡神社の沓塚の場所で、天智天皇の葬儀が行なわれて、その後、人々は三々五々帰って行ったと詠まれている。
現在、京都市にある天智天皇の山科陵は、織幡神社の地に埋葬されていた天智天皇の沓だけが改葬されていると思われる。
織幡神社の裏から入水自殺された天智天皇の遺骸は、何日か経って玄界灘の小島で見つかる。そこへ柿本人麻呂は、中間市の長津の港より手漕ぎの船で行かれた。
そこで詠まれた歌が、『万葉集』巻第二の220〜222番歌「讃岐の狭岑嶋に石中の死人を視て、柿本朝臣人麻呂作歌一首并せて短歌」である。