倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊国の万葉集⑰ 巻第二 147番〜155番 天智天皇の挽歌
 (令和6年2月28日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第二 挽歌 147〜155番  (天智天皇の挽歌)

 万葉集から日本書紀を読み直している結果、日本書紀が嘘を書いているという事から始まった。『扶桑略記』第五の天智天皇九年の記事と『日本書紀』天智天皇紀の記事とは、全く違っている。
 天智紀では、天智十年に病気で亡くなったと書かれているが、扶桑略記では、馬に乗って山階(やましな)に出かけて、返らなかった。そして、山林の何処で亡くなったか分からないと書かれている。
 さらに注に沓が落ちていた処を山陵とした。これが、現在京都市にある天智天皇の山科陵である。その山科陵が、豊国から改葬された陵であるならば、(くつ)だけしか埋葬されていない。これが、歴史上の事実であろう。

日本書紀』との相違
 『扶桑略記』第五  天智天皇九年

 十二月三日。天皇崩。同十二月五日。大友皇太子。即為帝位生年廿五。
 一云。天皇駕馬。幸山階郷。更無還御。永交山林。不崩所只以履沓落處山陵。以往諸皇不因果。恒事煞害
 『日本書紀』天智天皇紀  天智十年

 九月、天皇寢疾不豫。或本云、八月、天皇疾病。
 天智天皇が病に倒れた際、大海人皇子(後の天武天皇)は「倭姫王(やまとひめのおおきみ)が即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべき」むね進言した。また、天智天皇崩御後に倭姫王の即位または称制があったとする説もある。

 日本で一番有名な沓塚が、下記の写真にある織幡神社境内の武内宿祢の沓塚である。ここが、扶桑略記に書かれた天智天皇の沓が落ちていた山階郷だと考えた。
 織幡神社は、写真で示すように山の中にある神社である。天智天皇は、この山の中に入って行かれて帰ってこなかった。そして、沓だけが落ちていた。
 何故、沓だけ残して、還ってこなかったのか? 壬申の乱で大海人皇子の軍に敗れた天智天皇は、ここ織畑神社の裏の崖から、玄界灘へ入水自殺をした。現代でも入水自殺される方は、靴を残して入水自殺される。

写真「織幡神社(宗像市鐘崎)」
写真「織幡神社境内にある武内宿祢の沓塚」

織幡神社(福岡県宗像市鐘崎)

境内にある武内宿祢沓塚

 万葉集に入っていくが、題詞に「近江大津宮御宇天皇代天命開別天皇、謚曰天智天皇) 」とある天智天皇に関する147番から155番の九首は、巻第二の中で「挽(謌)歌」の所に載っている。万葉集の中で、挽歌だと断わってある。

 最初に取り上げる147番が、変である。題詞に「不豫(ふよ)」とある。この言葉は、天皇の病気だという事である。しかし、歌の内容は、天皇が天に上られたとある。

「万葉集」巻第二 挽歌
近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 天皇聖躬(せいきゅう)不豫(ふよ)之時太后奉御歌一首
 天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有

147

 天の原 振り()け見れば 大君(おほきみ)()寿(いのち)は長く 天足(あまた)らしたり
 天空を振り仰いでみますと、大君のお命は長く広く天に満ち足りております。
 太后

 倭姫(やまとひめの)(おおきみ)(生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘。母は未詳。叔父にあたる天智天皇の皇后。ただし、子女は無し。

 148番も題詞と歌の内容が合っていない。歌の通釈でも「御霊」とある。人が亡くなって、その魂が神となったのであるから、病気ではおかしい。

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 一書曰、近江天皇聖躬(せいきゅう)不豫(ふよ)御病急時、太后奉獻御歌一首
 青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相香裳

148

 青旗(あをはた)木幡(こはた)の上を通ふとは 目には見れども (ただ)に逢はぬかも
 一般的な通釈

 青々と樹木の茂る木幡山の上を御霊が往来しているのは、この私にははっきり見えますが、直接お姿に出合うことはできません。
 福永の新解釈

 山科の青旗のような木幡(織幡神社)の上を御霊は通っておられると目には見えるけれど、もはや直接には天皇にお逢いできないことである。
(「(ただ)に逢ふ」とは、相觸れる肉體のある人間として直接に相見る事である。 澤瀉(おもだか)久孝(ひさたか)

 「青旗の木幡」を『扶桑略記』の内容から「山科の青旗のような木幡」と訳し、この木幡は、織幡神社の処(木幡山)だと考えた。

写真「織幡神社(宗像市鐘崎)」
写真「織幡神社境内にある武内宿祢の沓塚」

織幡神社(福岡県宗像市鐘崎):この山が「木幡山か」

沖ノ島遥拝所(織幡神社裏の玄界灘)

 149番は、倭太后が、玉葛(老懸)が付いている冠を被った生前の天智天皇のお姿を偲ばれて詠った歌で、正しく挽歌である。

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 天皇崩後之時、倭太后御作歌一首
 人者縦 念息登母 玉蘰 影尓所見乍 不所忘鴨

149

 人はよし 思ひやむとも 玉葛(たまかづら) 影に見えつつ 忘らえぬかも
 たとえ人々は忘れさることがあっても、玉葛を冠った大君の面影が見えていて、忘れ去ることができましょうか。
 「コピスガーデン(栃木県那須町)」より

源氏物語「玉鬘(たまかずら)」がこのバラの名前に!
 あるいは、「いづくとて 尋ね来つらむ 玉かづら 我は昔の 我ならなくに」の歌も有名!  
 そもそも、「玉かづら」は、冠の脇に添える半月状のうまの毛で編まれたもので「おいかけ」と言われる装飾品です。  
 または、「ほおすけ」と呼ばれるものですが、田舎に暮らしていた玉鬘がこの「おいかけ」をつけることもできないことを嘆いた歌ですね!    
老懸(おいかけ)」
バラの名前:源氏物語「玉鬘」

「コピスガーデン(栃木県那須町)」より

玉葛・玉蔓・玉鬘(たま‐かずら‥かづら)
→ 老懸(おいかけ)

バラの名前:源氏物語「玉鬘」

 150番の作者は、未詳である。天智天皇の妃の一人か?

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 天皇崩時、婦人作歌一首(姓氏未詳)
 空蝉師 神尓不勝者 離居而 朝嘆君 放居而 吾戀君 玉有者 手尓巻持而 衣有者 脱時毛無 吾戀 君曽伎賊乃夜 夢所見鶴

150

 うつせみし 神に()へねば (さか)り居て 朝嘆く君 (さか)り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて (きぬ)ならば ()く時もなく 我が恋ふる 君ぞ(きそ)の夜 夢に見えつる
 この世の身である私、神様のようにお供ができず、こうして離れたまま、嘆きつつお慕いするしかありません。もし大君が玉なら手に巻き付けていよう、着物なら脱ぐこともなく、恋い焦がれていましょうに。昨夜、その大君が夢にみえました。

 151番は、額田王が万葉集の中で詠った天智天皇の挽歌である。

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 天皇大殯(おおあらき)之時歌二首
 如是有乃 懐知勢婆 大御船 泊之登萬里人 標結麻思乎  額田王

151

 かからむと かねて知りせば 大御船 ()てし(とま)りに (しめ)()はましを  額田王
 お亡くなりになると知っていれば、あらかじめ、大御船が泊っている港に標縄(しめなわ)を張って悪霊からお守りするのでしたのに。
地図「古遠賀湾」
 壬申の乱の最終局面
 柿本朝臣人麻呂歌集歌曰
 葦原 水穂國者 神在随 事擧不為國 雖然 辞擧叙吾為 言幸 真福座跡 恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪尓敷 言上為吾

3253

 柿本朝臣人麻呂が歌集の歌に曰く
 葦原の水穂の國(かむ)ながら言挙(ことあげ)せぬ國 しかれども言挙ぞ吾がする 言幸(ことさき)真幸(まさき)くませと (つつみ)無く(さき)くいまさば 荒磯浪(ありそなみ)ありても見むと 百重浪(ももへなみ) 千重浪(ちえなみ)しきに 言挙す吾は
 葦原の瑞穂の国は 天の神のご意志のままにいちいち言葉に出さない国だ けれども私は言葉に出そう どうかご無事でいて下さいと わずらうことなくご無事であれば この荒磯に波寄るように 私も生きてお会いしようと 百重(ももえ)千重(ちえ)にとしきりに寄せる 波のように言葉に出そう 言葉に出そう わたくしは
 壬申の乱の最終局面
 反歌
 志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具

3254

 反歌
 しき島の (やまと)の國言霊(ことだま)の 助くる國ぞ ま(さき)くありこそ
 しき島の (やまと)の国は言霊が 助けてくれる国だから あえて言葉に出すのです どうかご無事でいてほしい
 右の歌は相聞(そうもん)とされ、通説では「遣唐使を送る時の歌」と解釈している。
 だが、大海人皇子の軍に追い詰められた天智天皇が、新羅に亡命しようと磐瀬(いはせ)行宮中間市)を出港する際に、柿本朝臣人麻呂がその船出を詠ったとすると、歌の緊迫感が蘇る気がする。人麻呂はただただ天智天皇のご無事を「言葉に出して」祈ったのであろう。
地図「中間駅周辺」
地図「中間駅周辺」

御舘山

磐瀬行宮跡(中間市の御舘(みたて)山)

 地元では、「御館」を「みたて」と読む。田川市の国道201号線に「見立」という交差点がある。漢字は違うが、「見立(みたて)」である。見立という字には、「見送りする」という意味がある。
 「御館(みたち)」という場所は、人麻呂や額田王らが、天智天皇を見送った(送別した)場所だった。

 152番の作者、舎人(とねりの)吉年(きね)は、未詳の人物である。万葉集の中では、二首に出てくるが、日本書紀には登場しない人物である。

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 天皇大殯(おおあらき)之時歌二首
 八隅知之 吾期大王乃 大御船 待可将戀 四賀乃辛埼   舎人吉年

152

 やすみしし ()ご大君の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の唐崎  舎人(とねりの)吉年(きね)
 天皇の大御船を停泊させて待ち焦がれているのかい。志賀の唐崎よ。
 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之自宮 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食来 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而 何方 所念計米可 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留 百礒城之 大宮處 見者左夫思毛

29

 近江荒都時、柿本朝臣人麻呂作歌

 152番歌は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」の反歌・30番歌と非常に酷似している。

 反歌
 樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津

30

 左散難弥乃 比良乃大和太 與杼六友 昔人二 将會跡母戸八

31

 近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌
 玉手次(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の宮ゆ 阿礼座(あれま)しし 神の(ことごと) (つが)の木の (いや)()()ぎに 天の下 知らしめしける 虚見(そらみ)つ 倭を置き 青丹(あをに)よし 平山(ならやま)越えて (いず)(かた)を 思ほしけめか 天離(あまざか)(ひな)には有れど 石走(いはばし)る 淡海の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる 百磯城(ももしき)大宮処(おほみやどころ) 見れば(さぶ)しも
 反歌
 楽浪(ささなみ)思賀(しが)辛碕(からさき) (さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
 ささなみの 比良(ひら)の大わだ よどむとも 昔の人に 会はむと思へや
 近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌
【解釈】
 玉手次(たまだすき)畝火の山の橿原の日知(ひじり)(神武天皇)の宮以来、出現された皇神の(ことごと)くが、((つが)の木の)いよいよ(日知の位を)継ぎ嗣ぎして、天の下をお治めになったところの、(そら)()つ倭(天満(あまみ)つ倭、古遠賀湾沿岸)をさしおき、青丹(あおに)よし平山(ならやま)を越えて、何方をお思いになったのだろうか、天離(あまざか)る東方ではあるけれど、石走(いはばし)る淡海の国の、楽浪(ささなみ)の大津の宮に、天の下をお治めになったという、(景行)天皇の皇神(すめかみ)の尊の、大宮は此処と聞くけれども、大殿は此処と言うけれども、霞立ち春日がかすんでいるからか、夏草が繁くなっているからか、(実は涙でぼんやりとかすむ)百磯城(ももしき)の大宮処を見ると荒廃していることだ。
 反歌(をさめ歌)
 楽浪の思賀の辛碕は、昔に変らずにあるけれど、ここを出たままの大宮人の船を再びここに待ちうけることはできない。
 ささなみの比良の大わだは水が淀んで(大宮人を待って)いても、昔の人に会おうと思うことであろうか。いやそんなことはない。
 神功皇后軍忍熊王日本武尊の孫)軍を滅ぼし、王を入水自殺に追い込んだ。(四世紀)

 天智天皇の挽歌

 「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」は、表向きは4世紀の神功皇后軍が忍熊王軍を攻めて、忍熊王を入水自殺に追い込んだ時の事件を詠んでいる。30番・31番の歌にある「大宮人」は、忍熊王である。
 主君・天智天皇は、壬申の乱に敗れ入水自殺された。しかし、人麻呂は、壬申の乱後の天武天皇の御世では、公に天智天皇の挽歌を詠う事が出来ない。
 だから、4世紀に天智天皇と同じように入水自殺をされた大君(忍熊王)がいらした事件を歌に詠いあげながら、天智天皇の挽歌を詠んだ。
 30番歌にある「思賀の辛碕を出た大宮人」は、天智天皇である。磐瀬行宮(中間市の御館山の処)を出て行った天智天皇を嘆いた。通説では、人麻呂は天皇の挽歌を詠んでいない賭されているが、この歌が二重構造ではあるが、明らかに天智天皇の挽歌を詠んでいると言ったのである。

 153番歌の枕詞「鯨魚(いさな)」を通説の解釈は、入れずに「近江の海(琵琶湖)」としているが、絶対に鯨のいない琵琶湖の歌では無い。福永説の解釈では、「鯨魚取」の枕詞を取り入れて、「淡海乃海」は、古遠賀湾か玄界灘とした。

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 太后御歌一首
 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 之 念鳥立

153

 通説

 鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖()けて 漕ぎ来る船 ()付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな()ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の (つま)の 思ふ鳥立つ
 近江の海(琵琶湖)の遙かな沖を漕ぎ来る船、岸近く漕ぎ来る船。漕ぐ櫂で沖の波を強く立たすな。岸近くの波を強く立たすな。若草のような夫が思う鳥が飛び立つではないか。
 福永説

 鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を 沖()けて 漕ぎ來る船 ()附きて 漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな()ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の (つま)の 思ふ鳥立つ
 (鯨魚取り)淡海の海の遠く沖辺を漕いで来る船よ。岸近くを漕いで来る船よ。沖の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。岸辺の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。(若草の入水した我が夫のように思われる鳥が、驚いて飛び立つかも知れないから。

 153番歌で、天智天皇が入水自殺したという事が極め付けてわかる。まだ、天智天皇の沓だけが残されていて、遺骸が見つかっていない。歴史書である『扶桑略記』に書かれた内容とこの『万葉集』の歌で詠まれた歴史的な内容とが、合ってくる。
 だから、日本書紀では、天智天皇は壬申の乱前に病死されたと書かれているが、福永説の壬申の乱で天智天皇と大海人皇子(のちの天武天皇)が直接戦って敗れたというは、この万葉集が起点となっている。

 153番歌にある「鯨魚取り 淡海の海」というのは、磐瀬行宮(中間市御舘山)の処の海(古遠賀湾)だったかも知れない。

 154番歌に「楽浪」とあるから、古遠賀湾に面した処で詠まれた歌である。

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 石川夫人歌一首
 神樂浪乃 大山守者 為誰可 山尓標結 君毛不有國

154

 楽浪(ささなみ)の 大山守は ()がためか 山に標結(しめゆ)ふ 君もあらなくに
 通説

 近江大津京のお山の大山守はどなたのために(しめ)(なわ)を張ってお守りするのでしょう。(あるじ)の天皇はもういらっしゃ
らないのに。
 福永説
磐瀬行宮
  ↓
 中間市の
 御舘(みたて)

地図「中間駅周辺」

御舘山

 154番歌の「楽浪(ささなみ)」の通釈は、「近江大津京のお山」としているが、福永説は、「磐瀬行宮(中間市御舘山)」とした。

 155番歌は、「山科御陵」で額田王が詠まれた歌である。

近江大津宮御宇天皇代
天命(あめのみこと)開別(ひらかすわけ)天皇、諡曰天智天皇
 山科御陵退散之時、額田王作歌一首
 八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百礒城乃 大宮人者 去別南

155

 やすみしし ()ご大君の (かしこ)きや 御陵仕(みはかつか)ふる 山科の 鏡の山に (よる)はも ()のことごと 昼はも 日のことごと ()のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は
()き別れなむ
 恐れ多くも大君の御陵に仕える山科の鏡の山で、夜は夜どおし、昼は日中ずっと、仕えて声をあげて泣き続ける。都に仕えていた大宮人たちは三々五々去っていく。
写真「織幡神社(宗像市鐘崎)」

織幡神社(山科の鏡山)

 織幡神社の境内には、天智天皇が入水自殺された時に残された沓を納めた沓塚がある。この織畑神社は、写真にあるように山の中にある。額田王が詠まれた155番歌の中には「山科の 鏡の山」とあるからには、織畑神社がある山は、「鏡山」である。そして、この地が、扶桑略記に書かれている天智天皇が山林に入り行方がわからなくなった「山階郷」である。
 この織幡神社の沓塚の場所で、天智天皇の葬儀が行なわれて、その後、人々は三々五々帰って行ったと詠まれている。
 現在、京都市にある天智天皇の山科陵は、織幡神社の地に埋葬されていた天智天皇の沓だけが改葬されていると思われる。

 織幡神社の裏から入水自殺された天智天皇の遺骸は、何日か経って玄界灘の小島で見つかる。そこへ柿本人麻呂は、中間市の長津の港より手漕ぎの船で行かれた。
 そこで詠まれた歌が、『万葉集』巻第二の220〜222番歌讃岐の狭岑嶋に石中の死人を視て、柿本朝臣人麻呂作歌一首并せて短歌」である。