倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
               記紀万葉研究家  福永晋三

    

 豊の国万葉集④ 大伴旅人
(令和4年12月14日 於:小倉城庭園研修室)

 「 梅花歌(序文、822番)、還入故郷家即作歌 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第五 雑歌 815〜846番  (梅花歌32首)

 2019年5月1日に元号が「平成」より「令和」に改元された。その「令和」の出典左記が、『万葉集』巻第五にある「梅花歌卅二首并序」の序文である。

 大伴旅人のこの序文は、中国後漢の文人・張衡(ちょうこう)(78年-139年)の『歸田賦(きでんのふ)』や王羲之(おうぎし)(303年-361年)の「蘭亭序(らんていじょ)」をモデルとして書き上げられていると考えられる。

 「令和」の典拠とされた序文
 梅花謌卅二首 并序
 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春月 氣淑風梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封穀而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠
 天平二年正月十三日に、帥老の宅に(あつま)りて、宴會を()ぶ。時に、初春の(靈)月にして、氣淑く風ぎ、梅は鏡前の粉を(ひら)き、 蘭は珮後(はいご)の香を薫す。加之(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は(うすもの)を掛けて(きぬがさ)を傾く、夕の岫に霧結び、鳥は縠に()ぢられて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。ここに天を蓋にし地を(しきゐ)にし、膝を(ちかづ)(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、(えり)を煙霞の外に開く。淡然として自ら(ほしいまま)にし、快然として自ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらざるは、何を以ってか(こころ)()べむ。詩に落梅の篇を(しる)す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦して(いささ)かに短詠を成すべし。
 「令和」の典拠とされた序文
 天平二年正月十三日((西暦730年2月8日))に、太宰府の長官の大伴旅人の家に集まり、梅花の宴を開く。季節は、初春のよい月で、大気もよく風も穏やかになり、梅の花は鏡の前(に座る美女たちが化粧に使う)白い粉のように(白く)開き、蘭は(身にまとう)装飾品の香りのように薫っている。
 それだけでなく、夜がほのぼのと明けようとする頃の山頂に雲がかかり、松は薄く織った絹(のような雲)をかぶり傘を傾け(ているように見え)、夕刻の山の峰(または洞穴)に霧が生じ、鳥は(その)薄く織った絹(のような霧)に閉じ込められて林の中で迷っている。庭には今年の蝶が舞い、空には去年飛来してきた雁が(北へと)帰る。
 さてそこで空を覆いとし大地を敷物として、膝を近づけて盃を飛ばす(かのように掲げる)。(楽しさのあまり)一堂に会したこの部屋の中では言葉を忘れるほどで、襟を煙霞(のかかった美しい景色)に開いて打ち解ける。物事にこだわらずさっぱりとして自らの心のおもむくままにふるまい、気分良く満ち足りている。
(心情を述べるすべが)詩歌ではないのであれば、どうしてこの心情を述べることができようか。漢詩に落梅の編が書き記してある。(その漢詩が作られた)昔と今とで何が違うのだろうか。園の梅を題材としてちと短歌を作ろうではありませんか。

 「梅花歌卅二首并序」の中で旅人自身が詠まれた歌は、822番歌の1首のみである。歌に「主人」と書かれている。旅人自身の事である。歌は「梅の花散る」と落梅を詠っている。

 822番歌のみ旅人自身の歌
 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母   主人

822

 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも          主人
 我が園に梅の花が散っている。天空より雪でも流れてくるのだろうか。
博多人形のジオラマ「梅花の宴」

 大宰府展示館に展示
梅花の宴」を再現した博多人形のジオラマ
(山村延あき氏製作・公益財団法人 古都大宰府保存協会所蔵)