倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
               記紀万葉研究家  福永晋三

    

 豊の国万葉集③ 山上憶良
(令和4年11月23日 於:小倉城庭園研修室)

 「 貧窮問答歌 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第五 892番・893番
         (天智朝から天武朝に変わり、貧困に喘ぐ生活を訴えた歌)

 山上憶良は、幼少期から12歳の頃までは天智天皇の御世で過ごしたかも知れない。しかし、西暦672年に勃発した壬申の乱により天武天皇が、勝利し世の中が劇的に変化したのかも知れない。

 山上憶良の歌は、何となく天智天皇の御世を恋い慕うような詠い方が見られる。天智天皇は、『百人一首』1番歌の歌に見られるように、宇治天皇(真実の仁徳)と同じく民を思いやる政治をしていたのかも知れない。

 それが、天武朝の御世に変わり「山澤に亡命する民」は出てくるとか、大隅・日向の隼人族が全滅にあうとかきな臭い、または、血生臭い世に変わったと考えた時に山上憶良のこの「貧窮問答歌」が需要である。

 貧窮(びんぐ)問答(もんだふ)の歌一首 幷せて短歌
 貧窮問答謌一首 并短謌
 風雜 雨布流欲乃 雨雜 雪布流欲波 為部母奈久 寒之安礼婆 堅塩乎 取都豆之呂比 糟湯酒 宇知須〃呂比弖 之 夫可比 鼻毗之毗之尒 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等 伎曽倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻子等波 乞〃泣良牟 此時者 伊可尒之都〃可 汝代者和多流
 天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尒 比等〃波安流乎 比等奈美尒 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和〃氣佐我礼流 可〃布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尒 妻子等母波 足乃方尓 圍居而 憂吟 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖

892

 892番歌の「風交り」から始まる前半部が、「貧窮問答歌」の山上憶良の貧窮の問いである。そして、「天地は 」からの後半部が、山上憶良の貧窮の答えである。
 この歌は、『万葉集』の中でも独特の歌である。律令制と云われる時代の当時の人々の暮らしを鮮明に詠った歌は他には無い。

 貧窮(びんぐ)問答(もんだふ)の歌一首 幷せて短歌
飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尒 伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻  来立呼比奴 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道

 風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ()き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被り (ぬの)(かた)(ぎぬ) ありのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る
 天地は 広しといへど 我がためは ()くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かか
 貧窮(びんぐ)問答(もんだふ)の歌一首 幷せて短歌
飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尒 伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻(亻+弖) 来立呼比奴 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道
 風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ()き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被り (ぬの)(かた)(ぎぬ) ありのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る
 天地は 広しといへど 我がためは ()くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かか
 貧窮(びんぐ)問答(もんだふ)の歌一首 幷せて短歌
ふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいほ)曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには ()()吹き立てず (こしき)には 蜘蛛の巣かきて (いひ)(かし)く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ()るに いとのきて 短き物を (はし)切ると いへるがごとく しもと取る 里長(さとをさ)が声は 寝屋(ねや)()まで ()立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道
貧問
 風に混じって雨が降る夜、雨に混じって雪が降る夜、どうしようもなく寒い夜。固めた塩を取って少しずつ食べ、湯で溶かした酒糟を啜り啜りして咳き込み、鼻をぐすぐすさせ、大してありもしない髭を掻き撫でながら、誇ってみる。わしほどの人物はおるまい」と…。しかし寒くてならないので、粗末な麻衾(あさぶすま)を引き被り、ありったけの粗末な肩掛け類を重ねてみる。それでも寒い夜。このわしよりも貧しい人の父や母は飢え、凍り付くような思いでおろう。妻子たちは何かないかと乞

 次が、山上憶良自身よりの貧しい人々の貧窮の答えである。

 貧窮(びんぐ)問答(もんだふ)の歌一首 幷せて短歌
い、泣いていることだろう。こんな時はどのようにしてそなたはこの世をしのいでいなさる。
窮答 
 天地は広いというが、この私には狭くなっている。太陽や月は明るいというが、この私のためには照って下さらない。人はみんな私のようなのか。幸いに人として生まれ、人並みに私も働き生計を立てているのに、綿もない袖のない肩掛け。海草の海松(みる)のように破れて垂れ下がったボロ布を肩にうち掛けるのみ。地面に掘った粗末な住まいの地べたにじかに藁をほどいて敷き、父母は枕辺に妻子たちは足側に囲むようにして寝る。明日をもしれぬ憂いにさまよいながら…。かまどには火の気も起こさず、米を蒸す瓦の甑には蜘蛛の巣が張り、飯を炊くことなども忘れてしまい、トラツグミのようなうめき声をあげるばかり。それなのに、ただでさえ短い布の切れ端を切り詰めろというように、さらに生活を切り詰めろと、ムチをかざした里長が、ている近くまでやってきてわめきたてる。寝こんなにも辛いものだろうか。世の中を生きていくということが。
 貧窮(びんぐ)問答(もんだふ)の歌一首 幷せて短歌
 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆

893

 世間を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
 世の中はどんなに辛く窮屈であっても飛び立って逃げ出すわけにはいかない。鳥ではないのだから。
 山上憶良頓首(とんしゅ)(つつし)みて(たてまつ)
「万葉集 892番歌」

 「貧窮問答歌」から律令制のこの時代は、完全に行き詰っている。天智天皇の御世からは、この山上憶良の歌から分かるように衰えていた。税を取られるばかりの生活である。
 山上憶良とは、どのような人物であろうか? 官僚でありながら民を思いやる歌を詠んでいる。仁徳天皇の御世でもわかるように国の基は民であるが、奈良時代と云われる律令制のこの時代の実情はこのようなものである。人々は、重税に喘いでいるが、逃げ出すことも出来ない。
 口分田という農地を与えられるが、租税を納めなければ、里長から鞭うたれる。他に庸、調の税もあり、簡単に租庸調と習うが、惨い内容である。その内容を山上憶良は、892番・893歌で詠まれている。