倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集⑨ 「山部赤人」
(令和5年5月18日 於:小倉城庭園研修室)

 「 山部宿祢赤人 明日香と吉野を詠う 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第六 雑歌 923〜927番  (赤人も「吉野」を詠う)

 山部赤人にも「吉野の宮」を詠った歌が『万葉集』巻6にある。

 赤人の「吉野の宮」歌
 山部宿祢赤人作訶二首 并短訶
 八隅知之 和期大王乃 高知為 芳野宮者 立名附 青垣隠 河次乃 清河内曽 春部者 花咲乎遠里 秋去者 霧立渡 其山之 弥益々尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常将通

923

 やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣(ごも)り 川なみの 清き河内ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ
 我れらが大君の治められている吉野の宮は、幾重にも重なり合った山々で、青い垣根に囲まれた清らかな川の上にある。春には花が咲き誇り、秋がやって来ると、霧が一面に立ちこめる。重なり合う山々のようにしげしげと、清らかに流れ下る川のように絶えることなく、大宮人たちがやって来る。
 反訶二首
 三吉野象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

924

 赤人の「吉野の宮」歌
 み吉野の 象山(きさやま)の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも
 吉野の宮の前にそびえる象山(きさやま)の谷間。その木々の梢には騒がしいまでにしきりに鳥の鳴く声が聞こえて来る。
 烏玉之 夜之深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴

925

 ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木(ひさぎ)()ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く
 夜が更けてゆくにつれ、久木(ひさぎ)の生える清らかな川原では千鳥がしきりに鳴きたてている。
 安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者 跡見居置而 御山者 射目立渡 朝猟尒 十六履起之 夕狩尓 十里蹋立 馬並而 御猟曽立為 春之茂野尒

926

 やすみしし 我ご大君は み吉野秋津小野の 野の上には 跡見(とみ)()ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝狩に (しし)踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て 馬並めて 御狩ぞ立たす 春の茂野に

 925番歌は、山部赤人の代表作の一つで有名な歌である。良い風景だなとは、一つも詠まない。叙景を淡々と詠み、それを聞いて読む人に良い風景だなと思わせる。非常に良い詠い方である。

 下記は、山国川の写真である。この川が流れている所に吉野宮(山国町吉野の若宮神社)があったと考えている。

 山部赤人が、924番歌の冒頭で「三吉野み吉野)」と詠んでいるが、この句は、大伴旅人も巻3の315番歌で詠んでいる。
 そして、「(きさ)」の句があるように、旅人の316番歌には「象乃小河(きさ)の小川)」の句があり、これも共通している。

写真「山国川の上流」
写真「山国川の上流」

山国川の上流(猿飛千壺峡の近く)

 赤人の「吉野の宮」歌
 我れらが大君は、吉野の秋津の小野の野に、鳥獣の足跡を探る役目の者を置き、山には鳥獣を射る者を射目(いめ)に配置し、朝の狩りには獣を追い立て、夕狩りには鳥を追い立たせ、馬を並べて御狩をなさる。春の草木が茂る野で。
 反訶一首
 足引之 山毛野毛 御猟人 得物矢手挟 散動而有所見

927

 あしひきの 山にも野にも 御狩人(みかりびと) さつ矢()(ばさ)(さわ)きてあり見ゆ
 山中にも野原にも狩りを楽しむ人たちが弓矢を手挟んで走り回っているのが見える。
 右、不先後。但、以便故載於此次
 右は、先後を(つばひ)らかにせず。ただ便(たより)をもちての故にこの(つぎて)に載す。

 927番歌の後の菅原道真公が付けた左注があり、「長歌923番・反歌924・925番」と「長歌926番・反歌927番」の先後関係が違っているように思うが、目の前にある旧本通りの順に載せておくと書かれている。いずれにせよ、「吉野宮」の歌である。

 926番の歌にある「秋津」、「小野」であるが、吉野宮と考えている若宮神社のある山国町吉野より山国川に沿って国道496号線を下った所に山国町平小野と場所がある。

 歌と同じく「秋津」で狩りをした記事が『日本書紀』雄略紀にある。
「(雄略天皇四年)秋八月辛卯朔戊申、行吉野宮 。庚戌、幸 于河上小野 。命 虞人 獸。欲 躬射 而待。」
 最初に吉野宮を建てたのは、応神天皇である。その吉野宮があった所は、平小野菅原神社ではなかったと思っている。