倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集⑨ 「山部赤人」
(令和5年5月18日 於:小倉城庭園研修室)

 「 山部赤人の「行幸従駕の羇旅歌」 」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第六 雑歌 938〜947番  (赤人の行幸従駕の羇旅歌)

 山部赤人の紹介ページで記した「聖武天皇の行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)」が巻6にある。その赤人の詠んだ歌の前に笠金村(かさのかなむら)の歌(935〜937番の3首)が載っている。
 歌の題詞に「三年丙寅秋九月十五日、幸於播磨國印南野」とあり、『続日本紀』の記事から「神亀三年(726年)の聖武天皇の印南行幸」の時に詠われた歌だとわかる。そして、聖武天皇は、十月十九日に難波還幸とあり、行橋市に帰っている。
 通説では、聖武天皇が、奈良の平城京から出かけて、大阪の難波に帰ったと考えているから、歌で詠まれた内容と合わないと平気で言っている。(福永説)では、平城京は桂川町にあり、聖武天皇は行橋の難波に帰ってきている。

 だから、笠朝臣金村の歌(935〜937番)の後にある938番歌からの山部赤人の歌も「三年丙寅秋九月十五日、幸於播磨國印南野」という年月がそのまま当てはまる。

 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 三年丙寅秋九月十五日、幸於播磨國印南野時、笠朝臣金村作訶一首 并短訶
(935〜937番)
神亀三年((726年)) 聖武天皇の印南行幸  
(十月七日  行幸、十月十九日  難波還幸)
『続日本紀』
 山部宿祢赤人作訶一首 并短歌
 八隅知之 吾大王乃 神随 高所知流 稲見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦尒 鮪釣等 海人船散動 塩焼等 人曽左波尒有 浦乎吉美 宇倍毛釣者為 濱乎吉美 諾毛塩焼 蟻徃来 御覧母知師 清白濱

938

 やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野(いなみの)の 大海の原の 荒栲(あらたへ)藤井の浦(しび)釣ると 海人(あま)(ふね)(さw)き 塩焼くと 人ぞさはにある 浦をよみ うべも釣りはす 浜をよみ うべも塩焼く あり通ひ 見さくもしるし 清き白浜

 聖武天皇が行幸された「印南野」は、現在の兵庫県の加古川下流域から明石川下流域にかけて広がる平野の場所である。

*1

*1

 印南野(いなみの):海辺を古代の山陽道が通る現明石市稲美(いなみ)町・加古郡播磨町・加古川市・高砂市にまたがる野。

 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 われらが大君が神ながら支配される印南野の邑美(おふみ)の原は藤井の浦にマグロを釣ろうと漁師の舟がひしめき合う。塩を焼き出そうと浜に多くの人々が集まっている。良い浦なので釣り舟が集まるのももっとも。良い浜なので塩焼きに人が集まるのももっとも。こんな具合だから大君がたびたび通い、ご覧になるというものだ。何という清らかな白浜だろう。
 反訶三首
 奥浪 邊波安美 射去為登 藤江乃浦尒 船曽動流

939

 沖つ波 辺波(へなみ)静けみ (いざ)りすと 藤江の浦に 舟ぞ(さわ)ける
 沖も海岸も波静か。漁をするには絶好の藤江の浦。なので舟が集まってきてひしめき合っている。
 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長在者 家之小篠生

940

 印南野浅茅(あさぢ)押しなべ さ寝る夜の ()長くしあれば 家し(しの)はゆ
 印南野の浅茅を押し倒して寝る夜が幾日も重なり、自分の家のことがしのばれる。
 明方 潮干乃道乎 従明日者 下咲異六 家近附者

941

 明石潟 潮干(しほひ)の道を 明日よりは 下笑(したゑ)ましけむ 家近づけば
 潮がひいた明石潟の道を、明日からは家路に就き、家に近づくのでひとりでに明るい気持ちになる。

 939〜941番の反歌3首でも兵庫県明石辺りで詠まれた歌である。そして、最後の941番歌で「明日からは家路に就き」と読まれているから、(東か、西か)何方へ向かって旅の歌が詠まれるかである。
 (福永説)では、聖武天皇は行橋市の難波津へ還幸されるのである。だから、瀬戸内海を西へ向かったのである。

 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 辛荷嶋時、山部宿祢赤人作訶一首 并短訶
 味澤相 妹目不數見而 敷細乃 枕毛不巻 櫻皮纒 作流舟二 真梶貫 吾榜来者 淡路乃 野嶋毛過 伊奈美嬬 辛荷乃嶋之 嶋際従 吾宅乎見者 青山乃 曽許十方不見 白雲毛 千重尒成来沼 許伎多武流 浦乃盡 徃隠 嶋乃埼々 隈毛不置 憶曽吾来 客乃氣長弥

942

 あぢさはふ (いも)が目()れて 敷栲(しきたへ)の 枕もまかず 桜皮(かには)巻き 作れる船に 真楫(まがち)貫き 我が漕ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南(いなみ)(つま) 辛荷(からに)の島の 島の()我家(わぎへ)を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重(ちえ)になり()ぬ 漕ぎ()むる 浦のことごと 行き(かく)る 島の崎々 (くま)も置かず 思ひぞ()が来る 旅の()長み
 彼女から離れ(別れ)共寝もしないまま、(かに)()を巻いて作った船の両舷に梶を取り付け、ここまで漕いできた。
 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 淡路の国の野島も過ぎ、加古川の河口を過ぎて、唐荷島(からにしま)のそばにやってきた。そこから我が家の方を見たけれど、青々と重なる山々のどのあたりが我が家の方向なのか見当がつかない。白雲も幾重にも重なって、漕ぎめぐってきた浦々のことごとくが隠れ、島々の御崎という御崎も隠れてしまった。そのことごとくどの曲がりかども見逃さず故郷大和の方向に目を注いできた、ああ、我が家への思いがつのる。旅路の日々が長くなってきたので。
 反訶三首
 玉藻苅 辛荷乃嶋尒 嶋廻為流 水烏二四毛有哉 家不念有六

943

 玉藻刈る 唐荷(からに)の島に 島()する ()にしもあれや 家思はずあらむ
 藻を刈り取っている唐荷島をめぐる鵜の鳥だとでもいうのか、この私は。いえいえ鵜ではないから故郷(大和)が恋しくてならない。
 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 嶋隠 吾榜来者 乏毳 倭邊上 真熊野之船

944

 島(がく)り 我が漕ぎ来れば (とも)しかも 大和へ(のぼ)る ま熊野の船
 島を巡りながら漕いで来た粗末な船の私。ああ羨ましい。あの船は故郷の大和へ上っていく立派な熊野製の船ではないか。
 風吹者 浪可将立跡 伺候尒 都太乃細江尒 浦隠居

945

 風吹けば 波か立たむと さもらひに 都太(つだ)の細江に 浦隠(うらがく)り居り
 風が吹いてきて荒れそうな気配だから、都太(つだ)の細江に待避している。
 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 敏馬浦時、山部宿祢赤人作訶一首 并短訶
 御食向 淡路乃嶋二 直向 三犬女乃浦能 奥部庭 深海松採 浦廻庭 名告藻苅 深見流乃 見巻欲跡 莫告藻之 己名惜三 間使裳 不遣而吾者 生友奈重二

946

 御食(みけ)(むか)淡路の島(ただ)向ふ 敏馬(みぬめ)の浦沖辺(おきへ)には (ふか)海松(みる)()り 浦()には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ ()使(つかひ)()らずて我れは ()けりともなし
 御食(みけ)の国、淡路島に、まっすぐ正面に向かい合う敏馬(みぬめ)の浦。その沖では海中深くの海草、海松(みる)を採取する。浦の海岸周辺では名のりそを刈り取るという。深海松は是非見たいし、名のりそは名のるのが惜しくて、使いの者もやらず、どうしようもない。なので、生きた心地がしない。
 行幸従駕(じゅうが)羇旅歌(きりょか)
 反訶一首
 為間乃海人之 塩焼衣乃 奈礼名者香 一日母君乎 忘而将念

947

 須磨の海女の 塩焼き衣の 慣れなばか 一日も君を 忘れて思はむ
 須磨の人々が塩焼きに従事する作業着のように、旅に慣れ親しんでしまえば一日くらいはあなたのことが忘れられるだろうか、忘れようがない。
 右、作訶年月未詳也。但、以類故載於此次
 右は、作歌の年月いまだ(つばひ)らかならず。ただ(たぐひ)をもちての故に、この(つぎて)に載す。

 山部赤人が、聖武天皇の行幸に従駕し羇旅歌を詠んでいるが、これに先立つ歌が柿本人麻呂が天智天皇の瀬戸内巡行にお供した時の「柿本朝臣人麿の覊旅歌」である。

 赤人の歌にも人麻呂の歌にも「敏馬」、「野島」、「藤江」、「淡路」、「明石」、「印南」が詠まれている。人麻呂の歌は、行橋の難波津を出て瀬戸内海を東へ向かっているが、山部赤人の歌は、行橋の難波津へと西に向かって帰ってくる時の歌で、同工異曲である。

 ここまで山部赤人の歌をみてきて、大伴家持(やかもち)が『万葉集』の中で「山柿(さんし)之門」と讃え、『古今和歌集』仮名序には
「また山の辺赤人といふ人ありけり 歌にあやしく妙なりけり  人麿赤人が上に立たむことかたく 赤人人麿が下に立たむことかたくなむありける」
とある事がわかる。