「万葉集」巻第一 27番 (万葉仮名「四来三」の意味を解く)
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「万葉集」巻第一 27番歌の基本にあるのが、下記の「日本書紀」天武紀・下の天武天皇八年の記事(吉野の誓い)である事は間違いがない。
この記事の「丙戌、車駕還レ宮。」とある吉野宮から還った宮は、飛鳥浄御原宮。その地が、赤村大原(大楠のある貴船神社)だと思われる。
斉明天皇が造営したされる吉野宮(山国町吉野の若宮神社)は、実は天智天皇が造られた。その天智天皇に従い、柿本人麻呂は吉野宮を訪れている。そこで万葉集にある吉野の倭歌を詠んでいる。
言葉遊びのような27番歌を到頭訳した。倭歌の冒頭にある「淑人」は、誰か? その淑き人が、天智天皇だと解けたら訳せた。
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27番歌の最後の部分の万葉仮名「良人四来三」と書かれている真意は、上記の「天武紀・下」の書かれた天武天皇に従い吉野宮へ行幸した皇后(鸕野讚良)と6人の皇子を意味していた。
万葉仮名の「三」は、天智天皇の子、鸕野讚良・河嶋皇子・芝基皇子の3人。「四」は、天武天皇の子、草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子の4人を指していた。
この27番歌は、題詞に「御製歌」とあるが、天武天皇の倭歌ではない。最後の部分の訓読み「よくみ」の万葉仮名「四来三」の当て方が、凄かった。
したがって、この27番歌は、柿本人麻呂の作ではないか。
680年の吉野の誓いの翌年に天武天皇の崩御すると、草壁皇子の母の鸕野讚良皇后は大津皇子に謀反の疑いをかけ、自殺に追い込んた。この結果、天武天皇の吉野の誓いは、水泡に帰した。
歴史は、皮肉である。やはり倭歌は、歴史を詠っている。