倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑩ 「万葉集」巻第一 1~40番
 (令和5年6月15日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 尚、2022年9月28日の「豊国の万葉集①  真実の仁徳天皇」も引用しました。

 「万葉集」巻第一 雑歌 28番  (宇治天皇の皇后、髪長媛の歌だった)

 宇治天皇が、最初の国見に登った山は、高山(かぐやま)(=香山)であり、その山は香春三ノ岳である。その内容が、『古事記』仁徳記に残されている。
 『古事記』では、3年間税を取られなかったとあるが、『日本書紀』では、太子菟道稚郎子と大鷦鷯尊が、位を讓って、3年間空位を書かれている。

真実の仁徳天皇
 是に天皇、高山(かぐやま)に登りて、四方の國を見たまひて詔りたまひしく、「國の中に烟()たず國皆貧窮す。故、今より三年に至るまで、悉に人民の課役(えつき)(ゆる)。」とのりたまひき。是を以ちて大殿破れ壊れて、悉に雨漏れども、(かつ)て脩理すること()く、(はこ)を以ちて其の漏る雨を受けて、漏らざる處に遷り避けましき。後に國の中を見たまへば、國に烟滿てり。故、人民富めりと(おも)ほして、今はと課役を(おほ)せたまひき。是を以ちて百姓榮えて、役使(えだち)に苦しまざりき。故、其の御世を(たた)へて、聖帝の世と謂ふなり。
『古事記』仁徳記
 既にして(太子菟道稚郎子)宮室を菟道に興てて居します。猶ほ位を大鷦鷯尊に讓りますに由りて、以て久しく皇位に即きまさず。爰に皇位空しくして、既に三載(みとせ)()ぬ。時に海人有り。鮮魚の苞苴(おほにへ)()ちて、菟道宮(たてまつ)る。
『日本書紀』仁徳紀

 仁徳紀に書かれている空位の3年間は、本当は宇治天皇が即位されていた。その宇治天皇3年夏4月に2度目の国見で香山に登られた時の歌が、『万葉集』2番歌だった。

真実の仁徳天皇
 三年(七年)夏四月に、(宇治)天皇、香山(臺)に登りまして、(はるか)に望みたまふに、烟氣(けぶり)(さは)()つ。是の日に、(髪長媛)皇后に語りて(のたま)はく、「朕、既に富めり。更に(うれへ)無し」とのたまふ。皇后、(こた)(まう)したまはく、「何をか富めりと(のたま)ふ」とまうしたまふ。天皇の曰はく、「烟氣、國に滿てり。(おほみ)(たから)(おの)づからに富めるか」とのたまふ。皇后、()(まう)したまはく、「宮垣壞れて、(をさ)むること得ず。殿屋(おほとの)破れて、(おほみそ)(おほみふすま)露にしほる。何をか富めりと謂ふや」とまうしたまふ。天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、是れ百姓の爲になり。然れば君は百姓を以て(もと)とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ()ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは」とのたまふ。
『日本書紀 』仁徳紀(赤字の復元は福永) 

 日本書紀に宇治天皇が、2度目の国見をされたのが、夏四月と書かれている。旧暦の春は、1月・2月・3月。夏は、4月・5月・6月であり、『万葉集』28番歌は、「春過ぎて 夏来たるらし」と詠われており、日本書紀の季節とピッタリ合っている。
 皇后である髪長媛が、宇治天皇の2度目の国見に香山に登られるのを見送られた。その時に詠われたのが、28番歌である。この歌は、持統天皇が詠われた歌ではなかった。

「万葉集」巻第一 雑歌
 髪長媛皇后の歌(福永説)

 【新解釈】
 春が過ぎて夏が来たらしい。香具山の周囲には濃い緑が繁っているが、それとは対照的に香具山だけは夏の強い日差しを受けて、真っ白に輝いている。それはあたかも造化の神がそこだけに「純白のつやのある白妙の衣を乾してある」かのように眼に鮮やかに映ることよ。その香具山を、天皇が民の暮らしが豊かになったかどうかを確かめる国見のためにお登りになっている、そのお姿が小さいながらも見える。どうか、民の竈が賑わっていますように。
持統天皇
 過ぎて 夏来たるらし 白妙(しろたへ)の 衣()したり 天の来山
 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

28

 藤原宮御宇天皇代〈高天原廣野姫天皇元年丁亥、十一年譲位軽太子、尊号曰太上天皇
 天皇御製歌
 倭三山(昭和十年の香春岳)
昭和10年の香春岳

畝尾山

耳成山

天香山