倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
尚、平成27年7月25日の「真実の仁徳天皇(香春版)」も引用しました。
「万葉集」巻第一 雑歌 7番 (宇治天皇が、宇治宮を懐かしむ歌)
仁徳紀に「宮室を菟道に興てて居します」と書かれている。これは、太子菟道稚郎子が、天皇に即位したことを意味している。
播磨國風土記の中に宇治天皇という呼称が出てくる。應神󠄀天皇の皇太子であった菟道稚郎子が、天皇に即位されたのであれば、宇治天皇である。繋がりますね。だから、仁徳記の中で菟道宮とある。
宇治天皇は、即位されてから3年間税を取られなかったので、宮殿は壊れた雨漏れがしても修理することもなく、雨漏れする所を避けて過ごされた。
仁徳紀の中で3年間空位とされている間即位された宇治天皇(菟道稚郎子)こそが、「真実の仁徳天皇」だと言った。通説では、大鷦鷯天皇が仁徳天皇だとしているが、違っていた。
宇治天皇が、2度目の国見をしたのが夏四月であるが、それでも税を取らなかったが、冬十月になってやっと労役を科し宮殿を造られた。
宇治天皇が3年間税を取られなかったその恩返しで人民が新宮殿を造ったことが書かれている。
宇治宮の場所は、香春町古宮ヶ鼻の阿蘇隈社だと思われる。地元では、上権様とも言れている。阿蘇隈社の所かその下の平らな所かは判らない。また、この場所は天智天皇の菟道宮だったかも知れない。
いずれにしろ宇治天皇の宇治宮(菟道宮)も天智天皇の菟道宮も共にここ香春町古宮ヶ鼻にあったと考えている。
新しく完成した新宮殿(比良宮)に遷る時に雨漏れのする宇治宮を懐かしんで詠まれた歌こそが万葉集7番歌だった。
全古典中に宇治天皇という呼称は、播磨國風土記に1ヶ所。宇治宮という呼称は、万葉集7番歌の1ヶ所しか残されていない。
7
万葉集7番歌が、元歌と思われるのが、百人一首・1番の
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」 天智天皇
である。
万葉集7番歌の左注の中に干支「戊申」が書かれたいるので、宇治天皇三年(西暦408年)を割り出した。。