倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集① 「真実の仁徳天皇」
 (令和4年9月28日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 尚、平成27年7月25日の「真実の仁徳天皇(香春版)」も引用しました。

 「万葉集」巻第一 7番  (宇治天皇が、宇治宮を懐かしむ歌)

 仁徳紀に「宮室を菟道に興てて居します」と書かれている。これは、太子菟道稚郎子が、天皇に即位したことを意味している。
 播磨國風土記の中に宇治天皇という呼称が出てくる。應神󠄀天皇の皇太子であった菟道(うぢの)稚郎子(わきいらつこ)が、天皇に即位されたのであれば、宇治天皇である。繋がりますね。だから、仁徳記の中で菟道宮とある。

宇治天皇之世
 既にして(太子菟道稚郎子宮室を菟道に興てて居します。猶ほ位を大鷦鷯尊に讓りますに由りて、以て久しく皇位に即きまさず。爰に皇位空しくして、既に三載(みとせ)()ぬ。時に海人有り。鮮魚の苞苴(おほにへ)()ちて、菟道宮(たてまつ)る。
『日本書紀』仁徳紀
 上筥(かみはこ)の岡、下筥(しもはこ)の岡、黑戸津(くろべつ)朸田(あふごた)宇治の天皇の世、宇治連等が遠祖、兄太加奈志(えたかなし)(おと)()加奈志(かなし)の二人、大田の村の與富等(よほと)の地を請ひて、田を()り、(たねま)かむと來る時に、(つかひ)(びと)(あふご)を以ちて、(をしもの)具等(うつはども)の物を(にな)ひき。
『播磨國風土記』揖保郡
 応神天皇の皇太子菟道稚郎子皇子。記紀には、帝位を御兄(仁徳天皇)に譲って即位せられなかったとあるが、ここに天皇とあるのは、日本書紀によって天皇の御歴代が確定する以前の称によったものである。天皇とするからその「み世という言い方が出来るのである。
岩波大系本の頭注

 宇治天皇は、即位されてから3年間税を取られなかったので、宮殿は壊れた雨漏れがしても修理することもなく、雨漏れする所を避けて過ごされた。
 仁徳紀の中で3年間空位とされている間即位された宇治天皇(菟道稚郎子)こそが、「真実の仁徳天皇」だと言った。通説では、大鷦鷯天皇が仁徳天皇だとしているが、違っていた。

真実の仁徳天皇
 三年(七年)夏四月に、(宇治)天皇、香山(臺)に登りまして、(はるか)に望みたまふに、烟氣(けぶり)(さは)()つ。是の日に、(髪長媛)皇后に語りて(のたま)はく、「朕、既に富めり。更に(うれへ)無し」とのたまふ。皇后、(こた)(まう)したまはく、「何をか富めりと(のたま)ふ」とまうしたまふ。天皇の曰はく、「烟氣、國に滿てり。(おほみ)(たから)(おの)づからに富めるか」とのたまふ。皇后、()(まう)したまはく、「宮垣壞れて、(をさ)むること得ず。殿屋(おほとの)破れて、(おほみそ)(おほみふすま)露にしほる。何をか富めりと謂ふや」とまうしたまふ。天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、是れ百姓の爲になり。然れば君は百姓を以て(もと)とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ()ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは」とのたまふ。
『日本書紀 』仁徳紀(赤字の復元は福永) 

 宇治天皇が、2度目の国見をしたのが夏四月であるが、それでも税を取らなかったが、冬十月になってやっと労役を科し宮殿を造られた。
 宇治天皇が3年間税を取られなかったその恩返しで人民が新宮殿を造ったことが書かれている。

真実の仁徳天皇
 冬十月に、(はじ)めて課役(えつき)(おほ)せて、宮室(おほみや)()()る。是に、百姓、(うながさ)れずして、老を(たす)け幼を携へて、材を運び()を負ふ。日夜と問はずして、力を(つく)して競ひ作る。是を以て、未だ幾時を經ずして、宮室(ふくつ)に成りぬ。故、今までに聖帝と()めまうす。
地図「香春町古宮」

 宇治宮の場所は、香春町古宮ヶ鼻の阿蘇隈社だと思われる。地元では、上権様とも言れている。阿蘇隈社の所かその下の平らな所かは判らない。また、この場所は天智天皇の菟道宮だったかも知れない。
 いずれにしろ宇治天皇の宇治宮(菟道宮)も天智天皇の菟道宮も共にここ香春町古宮ヶ鼻にあったと考えている。

阿蘇隈社(上権様)= 推定 宇治宮
田川郡香春町古宮ヶ鼻
写真「阿曽隅社」
写真「阿蘇隈社」

 新しく完成した新宮殿(比良宮)に遷る時に雨漏れのする宇治宮を懐かしんで詠まれた歌こそが万葉集7番歌だった。
 全古典中に宇治天皇という呼称は、播磨國風土記に1ヶ所。宇治宮という呼称は、万葉集7番歌の1ヶ所しか残されていない。

「万葉集」巻第一 7番
右は、山上憶良大夫の類聚歌林を調べると書いてあることには、一書に戊申の年(宇治天皇三年=四〇八か)に(宇治天皇が)比良(菟道河沿いの地か)の宮に行幸されるときの大御歌といっている。(後略)
【新解釈】 金の野の草を刈って屋根にふいて宿っていた、あの宇治(田川郡香春町古宮ヶ鼻)の宮室質素な造りがなつかしく思い出される。
右、山上憶良大夫の類聚歌林(るいじゅうかりん)(かむが)ふるに曰はく、一書に戊申(つちのえさる)の年比良の宮に幸すときの大御歌といへり。(後略)
 金の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の京仮廬(かりほ)し思ほゆ
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御歌。(後略)
 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念

7

明日香川原宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇〉
 額田王歌 未

 万葉集7番歌が、元歌と思われるのが、百人一首・1番の
秋の田の かりほの(いほ)の (とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ 天智天皇
である。

 万葉集7番歌の左注の中に干支「戊申(つちのえさる)」が書かれたいるので、宇治天皇三年(西暦408年)を割り出した。。