「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
[崇神天皇、即位の174年~180年秋まで]
※ 倭国大乱と卑弥呼
(平成30年7月8日(日)、於:福岡県立大学大講義室)より
西日本新聞に連載した『新説 日本書紀』の抜粋である。第10代、崇神天皇の年代であるが、『日本書紀』に
書かれている干支から考えて、即位年は、174年くらいの倭国大乱中である。
178年に疫病が多く、民の大半が死亡と日本書紀にあるように、かつて田川の土地(豊国)では、国民の大半が
死亡した。
疫病とあるのは、何か? 私の仲間である高見大地さん、本名が天埜貴子というリモートセンシングの大家であるが、
この方は、火山考古学に興味があり、豊後の火山が噴火していて、その火山性ガスが風に乗って、豊前の土地に飛んで
来ていたという。
火山性ガスは、亜硫酸ガスであり、毒ガスである。国民の大部分の人々が、毒ガスによって死んだという。だから、
奈良県では、起きない事象である。
当時の人々は、その原因が、解らないから疫病というしかなかった。
亜硫酸ガスの影響で香春岳も草木が生えなかったという事を言い続けてきた。
179年に人民が流浪し、ある者は反乱したので、天皇は、天照大神・倭大国魂を祭ったとあり、天皇の名が、「崇神」と
あるように、ただひたすら、神を崇めている。
崇神天皇は、神を崇めているだけであった。その中心の神は、大物主である。
神明倭迹迹日百襲姫命の神明を「あまてらす」と読みました。
180年春は、神の教えのとおりに祭ったが霊験はなかったとある。
180年秋に今度は、大田田根子を捜し出せという事で、探し出した場所が、茅渟県の陶邑とあり、ここは、
宗像市須恵である。
まだ、不確定な要素があるが、須恵器(すえき)の窯跡が見つかっている。この窯跡は、弥生時代にまで遡るので
ないか? 角川日本地名大辞典に弥生時代の須恵器が書かれている。しかし、これは、考古学の常識とは合わない
ハズである。
大物主の子孫である大田田根子を捜し抱いて、11月に再び祭らせた。すると、疫病が初めて終息し、国内が
次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑わったとある。この時には、火山性ガスの影響が無くなって来たか?
それで、天皇は、宴をを催した時に詠われた歌が、
「この神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」
この「倭(やまと)成す 大物主」ということは、初めて倭(やまと)国をお造りになった大物主神と崇神天皇の
時にある。
184年に倭国の乱が収まる。中国の『梁書』という史書の霊帝の光和(178~184)中に倭国乱とある。
『日本書記 崇神紀』のこの時代に当る。
魏志倭人伝、後漢書以外にも倭国の乱について書かれた中国の歴史書があり、この『梁書』には、霊帝の光和年間と
という年代が入る。
したがって、長いスパーンの倭国大乱と短いスパーンの倭国大乱とが中国の歴史書に入っている。これらにより
日本書紀の崇神天皇の年代を割り出すことに成功した。
日本書紀の崇神天皇紀に倭国大乱に当る事件が、この年代に綺麗に収まっている。