「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

[198年 都怒我阿羅斯等、穴門に至る ~ 200年 越国の笥飯浦に停泊]

※ 倭国大乱と卑弥呼
 (平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より

198年、穴門(あなと)(関門海峡)に到った
 時、伊都(いつ)都比古(つひこ)に会った。
  彼は『私がこの国の王だ。私以外
 に二人の王はいない。
  他所に行くな』と言ったが、私は
 王ではあるまいと思い、島々浦々を
 伝ってここ(角鹿)に来た」と答え
 た。
200年、額に角のある人が越国(こしのくに)(福
 井県)の笥飯(けひ)(気比)浦に停泊した。
 そこを角鹿(つぬが)(敦賀)と名付けた。
  「どこの国の人か」。「意富加羅(おほから)
 国の王の子、名は都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと)
  日本国に聖王がいると聞いて、こ
 の国に来た。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 

 記紀によれば、198年穴門に至り、
200年に
気比に去っ

たことにな
る。
 卑弥呼共
立の年に都
怒我阿羅斯
等は気比神
宮周辺に到
着した
 都怒我阿羅斯等大加羅国から崇神の
死ぬ直前に穴門に来た。
 崇神が亡くなって垂仁に三年仕えた後、
垂仁の元を離れ、日本海を東に遷り、
賀の気比
に到ったという話になる。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 

 では、伊都
都比古
とは何
者か。
 私が飯塚の
王とした垂仁
天皇
に他なら
ない。
伊都(いつ)つ彦」
だ。
 最初、穴門に来た都怒我阿羅斯等は3年
間どこにいたか。
 香春町高野にある鶴岡八幡神社であるよ
うだ。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 

 東鯷国から倭国
への使者の話も垂
仁紀末尾にある。
 卑弥呼が、共立
された時から外交
政策を考えていた
なら、彼女は遠交
近攻策を採ってい
のではないか。
 その時、南の狗奴国と緊張関係にあった
卑弥呼が、後漢書に書かれた「東鯷(とうてい)国(近
畿にあった国)
」と友好関係を結ぶために
密使として阿羅斯等を派遣したのではない
かと考えられる。
 都怒我阿羅斯等卑弥呼の側近だった可
能性もある。
 四天王寺ワッソの
      都怒我阿羅斯等
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇