「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 韓半島 ~ 倭国(豊国)までの里程

[倭人は周里を用いた(歩と里の概念)]

 『日本書紀 孝徳紀』にある「五十戸を里とす」より、五十歩を1里と考えている。また、『新字源』より1歩(2跬:ふたあし)が六尺。尺は、22.5cmを用いている。尺の実例が、下記の『史記』管晏列傅の記述です。

*.周里:1里(50歩)=67.5m

倭人は周里を用いた
歩と里の概念
孝徳紀
 「五十戸とす」
  歩 (ふたあし)
   (五〇歩
  尺 (新字源)
= 一・三五㍍
= 六七・五㍍
= 二二・五cm
『史記』 管晏列伝 司馬遷
晏子 「六尺に満たず」
御者 「八尺の大男」
一・三五m
一・八m
秦  歩 (ふたあし)
  里 (三〇〇歩)
= 一・三五㍍
= 四〇五㍍
  歩 (ひとあし)
   (三〇〇歩)
= 〇・二四㍍
= 七二㍍
絵「1歩=2跬(跬:半歩、一足)」

新字源より

 

『史記』管晏列傅/『日本書紀』孝徳紀

『史記』 管晏列傳
 晏子為齊相、出、其御之妻
從門閒而闚其夫。其夫為相御、
擁大蓋、策駟馬、意氣揚揚甚
自得也。既而歸、其妻請去。
夫問其故。
妻曰:「晏子長不滿六尺、身
相齊國、名顯諸侯。今者妾觀
其出、志念深矣、常有以自下
者。今子長八尺、乃為人仆御、
然子之意自以為足、妾是以求
去也。」
其後夫自抑損。晏子怪而問之、
御以實對。晏子薦以為大夫。
『日本書紀』 孝徳紀 二年
 晏初めて戸籍・計帳・班田
収授之法を造れ。凡て五十戸
を里
とす。・・・

 

『翰苑』の謝承後漢書に記された一万二千里という距離は、周里を用いて倭人が測った。

 『魏志倭人伝』の一万二千里の距離は、その前に書かれた『 翰苑 』に「後漢書曰・・・樂浪郡儌、去其國万二千
里・・・
」とある。
 また、「魏略曰、・・・自帶方至女國万二千餘里。」とある。この一万二千里の距離は、誰が測ったか? 卑弥呼の
時代に魏使が倭国に始めて来たのが、西暦240年であり、それ以前に書かれた距離の記事である。
 したがって、この距離を測ったのは、倭人しかいない。最初に、倭人が樂浪郡と倭奴国の都(香春付近)までの
距離を一万二千里と測った。

 「里」という距離の単位が、厄介である。江戸時代の1里は、約4kmもある。そんなに長い距離ではない。当時、
香春付近に住んでいたと思われる倭人は、周王朝の時代に既に鬯草を献上していた。
 だから、物を献上しに行っただけではなく、周王朝から文物、文化を学んで帰ってくる。約3,000年前の周王朝から
距離・長さの単位も学習してくる。

 その周王朝の時代には、歩(ふたあし)が1歩である。現代の日本人の2歩が、古代の中国人の1歩である。
1歩は、6尺である。尺という物指で古い時代は骨製の物とか、途中から銅製の物が出土している。その周の時代の
物指は、1尺が、22.5cmとか23cmである。
 1歩は、6尺ですので、1.35mになります。何歩が、1里になるか問題である。周の時代には、50歩が1里
だったらしい。

 この1里が、三国時代の魏になると300歩となる。さらに唐の時代になると360歩が、1歩となる。歩数が、
王朝毎に変わっていく。
 周里は、50歩が1里となるので、67.5mとなる。例えば、中国の古典において、千里という言葉を聞く。千里
の馬とか、千里眼とか。この周の時代に出来た言葉とすると、千里の馬というのは、1日に何km走れる馬か?武具・
鎧を付けた人の載せて走しる距離が、67.5kmということになる。
 1日に67.5km走れる馬は名馬でしょう。また、千里眼とは、どれくらい見える視力か?67.5km先の影を
人や馬など見分けられる視力が、千里眼である。

 それが、後に秦の始皇帝は、自分の王朝を支配する運命的な数字が、「6」であると思い込んでいて、中国を統一
した時に度量衡も統一した。
 その時に周の時代の度量衡を概ね6倍したらしい。しかし、歩は、6倍出来ないから歩数を6倍した。すると、
1里は300歩がでてくるので、405mとなる。
 千里が、405kmになれば先ほどの千里の馬、405kmも1日に走れるか?途中で死んでしまう。千里眼で、
405km先が見えるのか。見える訳がない。千里眼というのが超能力ということになった。
 しかし、身近な事が古典には隠れている。倭人は、周のこの短い里(1里が、67.5m)を使っていた。
1000里が、67.5kmとなる。一万二千里は、周里を用いれば、810kmであり、平壌(樂浪郡)から香春町
辺りの距離となる。