「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 豊国の万葉集 ㉑ 巻第二 167〜193番 藤原宮御宇天皇代 挽歌
 (令和6年6月26日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)より

 建徳寺古墳 = 二号墳:押坂彦人大兄皇子・妃糠手姫皇女、一号墳:舒明天皇

建徳寺二号墳

 建徳寺古墳は直径20メートル、高さ3メートルで横穴式石室をもつ円墳。石室は複室構造で、奥室は縦横2メートルほどの正方形になっており、 内部からは鉄刀・鉄鏃・刀子・馬具・耳飾が出土しました。
 古墳が築かれたのは今から1400年前の6世紀後半ごろ。

(福永説)

 2号墳:押坂(おしさかの)彦人(ひこひと)大兄(おおえの)皇子(みこ )・妃糠手(あらて)(ひめの)皇女(みこ ) ・・・ 舒明天皇の父母(天智天皇の祖父母)

 1号墳:舒明(じょめい)天皇 ・・・ 天智天皇の父
(2号墳の隣にあったが、壊されて無くなっている)

 『日本書紀』皇極天皇元年十二月の記事に「壬寅、葬息長足日廣額天皇于滑谷岡。」とあり、舒明天皇の滑谷岡陵は、赤村にある滑古墳群の一基と考えている。
 皇極天皇二年の「九月丁丑朔壬午、葬息長足日廣額天皇于押坂陵。」とあり、滑谷岡陵より押坂陵へ改葬されている。この押坂陵が、建徳寺1号墳であると考えている。
 そして、延暦三年の長岡京への遷都後にこの押坂陵も桜井市忍坂に改葬されたようである。

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ 1号墳は、壊されてありません。