「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 求菩堤(くぼて)(さん) = 狭野(さの)(だけ)、人皇嶽

 求菩堤(くぼて)(さん)は、「サノダケ」⇒「人皇岳(ニンノウダケ)」と言われていた。求菩堤山は、英彦山、犬ヶ岳と共に修験道の山だった。

 烏天狗または(からす)天狗(てんぐ)と大天狗の伝説。烏天狗が、八咫(やた)(がらす)(又は、やたのからす)。 

 ⇒ (大天狗:豊前坊)及び八咫烏(求菩堤山八天狗)一族と同盟を結ぶ。 

 *.天狗(テング)の読みも「アマノイヌ」とも読める。倭奴(イヌ)国につながる。

※  第二次東征では数ヶ月(二月~六月)間、狹野嶽(求菩堤山) に通い頭大天狗(豊前坊)及び八咫
 烏(求菩堤山八天狗)一族
と同盟を結ぶは、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の 118年 です。

『頭八咫烏 = 大天狗(英彦山豊前坊)と(からす)天狗(てんぐ)

「講演時のスライド」

 

求菩堤(くぼて)(さん)縁起』

「講演時のスライド」

*.求菩提山の歴史. 求菩提山文書(江戸時代に書かれた文書)

 

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 筑豊は私が唱える「 天満倭国 」であり、都は、神武紀に云う「中洲」であり、竈門神社の由緒に云う「中州の皇都」である。
詳細は後述するが、まず、宇佐から英彦山へのコースが示されている。
 『鞍手郡誌』の編者は、「宇佐から中津に出、山国川に沿うて耶馬溪を登られ、日田付近の守實から五里余の難路を攀じさせられて英彦山の山頂を極めせられた」と推測している。そして、「日子山は天神天忍穂耳尊のお降りになった国見山であり、神武天皇も先ずこの山頂に於いて『国覓(くにまぎ)』を遊ばした。同山の水精石の由来にも神武五年七月云々の文字がある。」という記述が見られる。
 管見するかぎり、一応合理的なコースである。
 天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師、中洲(なかつくに)に趣かんと欲す。而るに山の中嶮絶にして復た行くべき路無し。棲遑ひて其の跋み渉る所を知らず。
 この表現と『鞍手郡誌』の編者の示した宇佐から英彦山へのコースとは、見事に内容が合致している。
 西の偏」から宇佐へ大迂回した神武一行にとって、目指す「 中洲の皇都 」への最初の難路こそ英彦山越えに他ならないからだ。

 この時、天照大神すなわち天神が遣わした道案内者こそが、頭八咫烏であったのだ。この頭八咫烏を数年追求した結果、英彦山の修験道圏内の別山に、神武東征を裏付ける文書が現存していた。「求菩堤山縁起」である。
 江戸時代に書かれたものであるが、求菩提資料館に常設展示してある、その開かれたページに次の伝承が記されている。
 其の濫觴を考ふるに最初人皇嶽と号す。(中略)或ひと説きて曰く、「天地開闢し、神代巳に終る。神武天皇鋒端を揺し、中国を平らげ、威奴の邪神を撥はしめ、九州を(おさ)めんとす。此の嶺に到りて天神地衹を斎祭(まつ)り、(つつし)みて龍駕を立てし所を狹野嶽と曰ふ。 天皇の尊号の故なり。」云々
                                  (訓読及び傍線は筆者)

 ① 求菩堤山の最初の名は「人皇嶽」であった。
 ② 神武天皇が武力を以て中国=中洲(なかつくに)を平定し、威奴(いぬ)(すなわち倭奴)の邪神を払い除け、九州(天
  下)を治めようとした。
 ③ この嶺に到り、龍駕(天子の車)を立てた(=降臨した)所を狭野嶽といい、天皇の尊号のゆえ
  んである。
  (②、③は、或ひとの説。したがって、狭野嶽」の称が「人皇嶽」より古いことになる。)

 驚愕の伝承である。神武紀からこの伝承を作ることができない。むしろ、この伝承の元から神武紀は書かれたはずだ。
 神武の亦の名は、確かに「狭野尊」であり、神代第十一段一書(第一)に「狭野所称(まう)すは、是、年若くしてまします時の号なり」と記してある。

 特筆大書されるべきは、「頭八咫烏」が求菩提山には存在することである。求菩堤山八天狗(カラス天狗)像がそれと思われる。
 これも江戸期の作であるが、求菩堤山の縁起と八天狗の像が、神武東征に関っては実に古形を留めていると云わざるを得ない。
 そう考えたときに、初めて神武紀の「遂に狭野を越ゆ」の一句が歴史事実として蘇るのである。

  福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料 「  邪馬臺国の位置と年表改訂版 」の8ペ
 ージ
に『121年 邪馬台国創始。
 二月、論功行賞。頭八咫烏、亦賞の例に入る。 求菩提山 英彦山 から川水系に沿って、今日の田川
 郡 赤村より 烏尾峠 辺りまでの「 飛ぶ鳥の明日香 」の地の領有を認められたしい。』の記述があり
 ます。

 『日本書紀 神代紀下』に「狹野(さの)」とある

『日本書紀』神代紀 第十一段
 一書曰、先生彥五瀬命。次稻飯命。次三毛入野命。次狹野尊。亦號神日本磐余彥尊。所狹野者、是年少時之號也。後撥平天下、奄有八洲。故復加號、曰神日本磐余彥尊
[第一]
 一書(あるふみ)に曰はく、()(ひこ)五瀬(いつせ)命を生みたまふ。次に稲飯(いなひ)命。次に三毛(みけ)入野(いりの)命。次に狭野(さの)尊。亦は(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)(びこ)尊と号す。狭野(さの)所称(まう)すは、是、年少くまします時の(みな)なり。後に天下(あめのした)(はら)ひ平げて、八洲(やしま)を奄有す。故、(また)(みな)を加へて、(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)(びこ)尊と曰す。

 

『日本書紀 神武紀』に「狹野を越えて」とある

『日本書紀』神武紀
 六月乙未朔丁巳、軍至名草邑。則誅名草戸畔者戸畔、此云妬鼙遂越狹野、而到熊野神邑、且登天磐盾
 六月(みなづき)乙末(きのとひつじ)(ついたち)丁己(ひのとみ)に、(みいくさ)()(くさ)邑に至る。則ち名草(さくさ)戸畔(とべ)といふ者を誅す。戸畔、此をば妬鼙(とべ)と云ふ。遂に狭野(さの)を越えて、熊野の神邑(みわのむら)に至り、(すなは)(あまの)磐盾(いはたて)に登る。

 

  添田町にある高住神社(英彦山豊前坊)は、  こちら  から

  佐賀県神埼市の八天狗山は、 こちら から

 

2021年12月3日(金)、『新説日本書紀』第9回講座より

「求菩提山」

Ⓒ豊前市観光協会

(やまと)王朝の歴史とその遺構(平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より

 人皇廿七代繼體(継体)天皇の御宇、此の縣の國民威奴が岳(犬ヶ岳)の凶暴なる鬼を懼る。

  神武以来、飛ぶ鳥の明日香(赤村)を領有した八咫烏一族が、継体天皇の御世に犬ヶ岳の鬼に貶め
 られ滅ぼされた。
 (烏)天狗=鬼
 *.犬ヶ岳の表記が、威奴が岳と書かれている。金印の授かった国、倭奴国も「いぬ国」と読むべき
  だった。

 

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