「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の6ページに
「鯷」字考の項の中に「鮭神社(嘉穂町上大隅)」の記述があります。
※ 倭国大乱と卑弥呼
(平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より
● 「鯷」字考
東鯷国という『後漢書』に書かれた国がある。東の「しゃけ」の国と解釈している。東鯷国は、昔の教科書に
載っていた銅鐸文化圏である。銅矛文化圏が倭国であり、北部九州が中心である。弥生時代の祭祀の道具が大きく
異なる。近畿地方が倭国であるわけはない。
東鯷国の「鯷」の字について考えると、『倭名類聚抄』という平安時代の百科事典に「比師古(ひしこ)」だと、
鯷鰯(シコイワシ)だという書かれている。
日本で一番大きな『大漢和辞典』に「鯷」は、なまづ。おほなまづ。鮧・鮷に同じ。鯷は、鮎也。訓読みが、
邦(ひしこ)と書かれている。どれが正しいのですかね。
中国の大辞典である『漢語大詞典』の「鯷」に①大鮎とある。これは「おおあゆ」ですかね、「おおなまず」
ですかね。これは、中国では、「おおなまず」です。「あゆ」ではなく、「なまず」である。
③に「我国古代東方海中種族名」があり、日本列島の東側に東鯷人が住んでいる書いている。
本草綱目からの図である。魚片に生という漢字「鮏」も「しゃけ」である。ここにある年魚も「しゃけ」と読ませる
のでしょう。細鱗魚も「しゃけ」である。
鮎という字は、中国では、「なまず」の篆書 (象形文字に近い)があるが、この形が、「あゆ」に見えますか?
この形は、「なまず」でしょ。
魚片に弟という鮷は、大鮎(おおなまず)と書かれている。 を象形文字だとすると「しゃけ」の開きと同じである。
骨の部分を描写した形である。
中国の漢代に『戦国策』という本が出来ている。その中に「鯷冠」という言葉がある。鯷という魚の皮で帽子を作った
と書かれている。
アイヌの人たちが作っているチェプケリというサケ(鮭)皮の靴がある。動物のなめし革の靴である。魚の皮で作る
から鮭である。中国語で、魚片に圭と書いて、鮭である。
東鯷国の人たちは、鮭という魚を大事にして、鮭皮で作った帽子とか、靴とか、着物を中国の呉の国まで持って行って
物々交換をしていたらしい。
京都府の北から北陸にかけての東鯷国には、九州から行った倭人とアイヌの人達が住んでいて、鮭皮の製品を作っていた。
東鯷国では、鮭は神様の魚であると同時に食べていた。色々なところに利用していた。
遠賀の人たち、筑豊の人たち。特に鮭神社の近くの人たちは、鮭を食べない。タブーなんです。『肥前国風土記』に
年魚は、神の使いであるから、食べてはいけない。そのようなタブーが弥生時代、卑弥呼の時代から続いていた。
だから、筑豊には、鮭を食べる文化が無い。遠賀川で採れた鮭が市場に出されても神の使いだとして、鮭神社に
奉納する。日本列島の中で倭国と東鯷国では、鮭に関する文化が違う。
鮭を「しゃけ」という言い方がおかしい。これは、九州弁である。関東では、「さけ」であるが、焼いた鮭が入った
弁当は、しゃけ弁という。元を正せば、九州弁である。
香春町の台(だい)にある現人神社の近くに「鮎返し」という地名がある。川崎町の中元寺川にも「鮎返り」という
地名がある。鮎という字がひょっとしたら「さけ」だという可能性がある。
つまり、遠賀川に秋になって、鮭は産卵に登ってくる。その鮭が登れない場所が「鮭返し」であるが、字は、
「年魚(あゆ)返し」という言葉に変わっている。これは、私にとって、小さな大発見である。「年魚(あゆ)返し」と
いうのは、鮭が登れないような場所である。
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