「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 若咲神社=神功皇后紀の磐余若桜宮/若咲神社バス停前=神功皇后御水鏡伝説之地

『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演より

  新発見「磐余若桜宮」

 『日本書紀 神功紀』

 三年の春正月の丙戌の朔戊子に、誉田別皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくる。是をば若桜宮と謂ふ。

 六十九年((西暦389年))の夏四月の辛酉の朔丁丑に、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。時に年一百歳。
 冬十月の戊午の朔壬申に、狹城盾列陵に葬りまつる。

 若咲(わかさ)神社(田川市川宮)

「写真」

 若咲神社縁起

「写真(縁起)」

 田川市川宮に若咲神社がある。「咲く」という字に、「ら」という接尾辞がついて「さくら」という。古典では、「咲」の一文字でも「さくら」と読める。
 だから、ここは「わかさくら神社」であるが、宮司さんに訪ねると今は、「わかさ神社」と読んでいる。

 若咲神社縁起 

若咲神社の由来

 若咲神社は、昔神功皇后が三韓より御還啓の節儀に賊田油津姫をご征討の後、更にその兄夏羽追撃の途次、此處に暫く御駐蹕の砌り、西北一丁余の所に清き真水の湧き出るを聞き召されて、この池に水鏡遊ばされ

「いまだ面やせず若く咲きて木の花の如し」

と仰せられ給ひしに因り、この池を若咲池と称し奉り、皇后の功徳をこの池に永く慕い奉ろ可くとし神功皇后を齊き祀れる御社として、又遠き祖神若狭彦命、並びに若狭姫命を配祀せらるるに因り若咲と若狭の名称を合称して、明治四十年より若咲と敬称し、両称一体以って若咲神社と称し奉る霊験あらたかなる神にして古来より村民の崇拝を集めている。

 神功皇后の若桜宮は、どうもここらしい。宮司さんに訪ねたら、今はこの地に移って来ているが、かつては中元寺川の直ぐ傍にありました。何処にあったかは判らないが、伝承は古くからありますとハッキリと答えられた。
 若桜宮は田川の地にあり、やはり、奈良県では無かった。その若桜宮で神功皇后は亡くなったという事は、狹城(さきの)盾列(たたなみの)も田川の地にある事になる。

 現在、中元寺川に掛かる若咲橋の傍にある民家の庭先に下記の写真の祠がある。これが、若咲神社の元宮である。
 また、田川郡教育會が建立した「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑が、国道201号線沿いの西鉄バス「若咲神社停留所」の処にある。

 若咲神社・元宮(若咲橋の袂の民家の庭先)
「神功皇后御水鏡伝説之地」石碑
「写真」
「写真」

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ 若咲神社、バス停(若咲神社)、若咲橋

 <ストリートビュー> ・・・ 若咲神社バス停前(「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑)