「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 風治八幡宮(祭神に神功皇后、境内に神功皇后のお腰掛けの石)、川渡り神幸祭

『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演より

『日本書紀 神功紀』

氣長足姫尊の豊国北伐
 忍熊王逃無入。則喚五十狹茅宿禰、而歌之曰
いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 
内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは
鳰鳥の 潜せな
 則共沈瀬田濟而死之。于時、武内宿禰歌之曰、
淡海の海 齊多の済に 潜く鳥 
目にし見えねば 憤ろしも
 於是、探其屍而不得也。然後、數日之出菟道河。武内宿禰亦歌曰、
淡海の海 齊多の済に 潜く鳥
田上過ぎて 菟道に捕へつ

 忍熊(熊坂)王は、神功軍に追い詰められてもう逃げる所が無くなり、入水自殺をする。忍熊王は、倭建命の孫に当たる。現在でも天皇家の象徴である三種の神器、草薙剣の持ち主である。
 つまり、忍熊王は、腰に草薙剣を佩いたまま淡海(古遠賀湾)に入水自殺をする。瀬田濟で、入水自殺をする。
 『日本書紀』では、武内宿禰が忍熊王の死体が見えなから悔しい事だと詠う。そこで兵士たちに死体を探させる。淡海は、浅い海であるからこれが悲劇の元である。水中に潜ってでも探させる。暫くは死体が出なかったが、然後に日を経て、菟道河で出たとある。この菟道河は、香春の金辺川か彦山川のどちらかである。
 最初は、何故、武内宿禰がこのように執念深く忍熊王の死体を探すのかが解らなかったが、忍熊王が倭建命の孫であると気づいた瞬間に草薙剣だと解った。
 草薙剣(三種の神器)が手に入れば、(やまと)国(=豊国)の王者になれる。忍熊王の死を確認出来きるとともに、草薙剣を手に入れたので、武内宿禰は見つけたぞと詠った。
 下図の「 忍熊王の逃避行 」は、香春町が中心である。古代の海が、香春の近くまで来ている。忍熊王は、香春で神功軍と戦って敗れて、舟で 古遠賀湾 へ逃れて行き、瀬田濟 飯塚市勢田 )で入水自殺をした。淡海(古遠賀湾)が浅い海であり、数日経って、満潮時に海水が押し戻されて、その忍熊王の死体が菟道河に浮かんだ。その場所は、田川の近くになる。
 風治八幡宮川渡り神幸祭の御旅所が、以前は違っていた。(かつ)ての御旅所は、 白鳥神社 のすぐ下の所にあった。風治八幡宮は、神功皇后が祀られている。そして、神功皇后のお腰掛けの石もある。
 川渡り神幸祭の起源は、忍熊王を攻めた神功軍の戦いである。忍熊王の死体が上がった場所が、(かつ)ての御旅所だった白鳥神社の下の所である。
 古遠賀湾沿いの戦いであるから川の中に入る。その忍熊王を倒した戦いの名残りであると思われる。だから田川の祭りは、重要である。

 忍熊(熊坂)王の逃避行

「絵地図」

 風治八幡宮川渡り神幸祭

「写真」

 <所在地のGoogelマップ>