「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
六ヶ岳は、宗像三女神が降臨したという神話が伝わる。山麓に六嶽神社があり、宗像三女神が祀って
あるが、『日本書記 神代上 第六段(瑞珠盟約章)[第3]』の記述は、素戔鳥尊の子、すべて男(六男)=六ヶ岳に宗像三女神が侵略してきた「饒速日(天照大神)対
素戔鳥尊」の戦いである。
※ 六ヶ岳
「六ヶ岳由来」
本町南部の山岳で、旭岳(339m)を最高峰として天冠、羽衣、高祖、崎戸、出穂の六峰を六ヶ岳と読んでいます。
天孫瓊々杵尊の御陵といわれる可愛陵は伝説によると第一峰旭岳に尊のなきがらを、第二峰天冠岳には冠を、第三峰羽衣岳には衣を埋葬し奉るとあり、山々の神秘性とロマンに思いを馳せさせます。
風土記には六ヶ岳を崎戸山といい宗像の三女神は崎戸山に天降り、その後宗像に移り住まわれたとあり山麓の六嶽神社の祭神はこの三女神であり土地の人は三柱様と称えています。
*.ここに記されている瓊々杵尊は、饒速日尊と入れ替えられた跡である。
※ 『日本書紀』 神代上 第六段[第3]
「葦原中國の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。號けて道主貴と曰す。」
この記事が、宗像大社の起こりである。
『古事記』天照大神と須佐之男命と『日本書紀』神代上 第六段 瑞珠盟約章の「 天安河の誓約 」の記事はこちらです。
※ 『筑前國 風土記』「宗像の郡」
(社記あり。その中に、)
西海道風土記に曰はく、宗像の大神、天降りまして崎門山に居給ひし時、靑蕤の玉 一本に八尺累蕤玉とあり。 を奥津宮の表に置き、八尺瓊の紫の玉を中津宮の表に置き、八咫の鏡を邊津宮の表に置きて、この三つの表を神體の形と成して三つの宮に納め、すなはち納隱り給ひき。
因りて、身形の郡といふ。後の人改めて宗像といひき。其の大海の命の子孫は、今の宗像朝臣等なり云々。
※
福永晋三先生のタイトル『天香山事件』の資料「 天香具山争奪戦 」の5ページに「天の岩屋戸事変」、「素戔鳥尊異聞」の説明があります。
以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より
「六嶽神社の由緒」
「宗像三女神最初降臨の地にして孝靈天皇の御宇に宗像三所に遷幸ましまし宗像大神
顯れ玉ふ其の后成務天皇七年室木の里長々田彦神勅を蒙て崎門山上に神籬を建つ是
れ御社の始也」
とある。
その上、宗像三女神は、「天孫降臨」の偉業を助けたとの伝承も残されているから、歴史事実として、「天神降臨」の偉業の助成をしたことになる。
*.崎門山は、六ヶ岳の古称。
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