「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 豊国の万葉集⑳ 巻第七 1230番前後
(令和6年5月21日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)
講演としては、豊国の万葉集⑰ 巻第二 147番〜155番(令和6年2月28日)の続編である。
『万葉集』155番歌の題詞には、「近江大津宮御宇天皇代(天命開別天皇、諡曰二天智天皇一)」とある。その天智天皇は、日本書紀では壬申の乱の前に病死したと書かれているが、万葉集で詠まれた歌の内容から天智天皇と大海人皇子は、壬申の乱で直接戦い、敗れた天智天皇は入水自殺された事がわかる。
だから、いつも「倭歌は歴史を詠う!」と言っている。天智天皇は、下記に載せている写真の織幡神社の裏の崖の突端から入水自殺をされた。これが、歴史の真相だと思われる。
また、既に下記の項で説明している『扶桑略記』という歴史書には、「天智天皇は、山階郷に行けれ戻られなかった。そして、亡くなった処が判らない。天智天皇の沓が落ちていた処を山陵とした。」と書かれている。その場所が、織幡神社である。
『扶桑略記』にある「山階郷の山陵」が詠まれた歌が、万葉集の中にあった。額田王が詠まれた153番歌である。
153番歌の歌の中に「山科乃 鏡山」とあるから、山科御陵がある処が、鏡山である。
現在、京都市にある天智天皇の山科陵の場所と写真を確認して見ると上記に示す織幡神社の全景が似ているように思われる。
そして、下記に示す京都市の山科陵の地図を見ると、南側に「鏡山小」がある。「鏡山」の地名が残されている。だから、天智天皇の山科料も宗像市の落畑神社の地から改葬されたのでは、思われる。
■ 壬申の乱 (最後の豊国北伐) 倭国(豊国)北伐考(平成28年3月21日、於 久留米大学)講演より
壬申の乱は、大海人皇子の 吉野 (山国町吉野)からの豊国北伐である。天智天皇は、大海人皇子の軍に破れて淡海の京( 御舘山 )から逃れたが、織幡神社の崎より入水自殺をした。
大友皇子は、山前(小竹町山崎)で首を吊って自殺した。
天智天皇の入水自殺の場所
(昔からの自殺の名所)
※
『日本書紀』とは異なり、『扶桑略記』では、天智天皇九年に崩御とある。ここに天智天皇の最期に関する記述がある。
「ある書に曰く、天皇、馬に駕りたまい山科の郷に幸したまう。全くお還りになることが無かった。長く山林に留まりなさって、何処でお亡くなりなったか判らない。」と記されている。
さらに、(注)の記事は、「只、沓の落ちし處を以て、山陵と為す。(沓だけ残して遺体が見つからなかったという天智天皇の最期に関わるある説。)
以て昔の諸々の皇達の因果を知らず。(これはもの凄く省略してあり意味が判らない。結局、死に関して原因結果が判らない。)
帝の死については、最後の四文字は、常に殺害を事とする。(天皇であっても殺されている。)」と書いている。
宗像市鐘崎のある織幡神社の境内に武内宿祢の「沓塚」というのがある。説明の沓塚というのは「沓だけ残して昇天した」という記録です。
天智天皇ではないのか?ここでは、武内宿祢となっている。しかし、福岡県の神社を色々と回って確認しているが、高良大社の奥宮に武内宿祢の墓と記されている。高良大社の奥宮が、間違いのない武内宿祢の墓と考えているので、ここ織幡神社の沓塚は、誰の沓塚か?これは、『扶桑略記』に記されている天智天皇の最期の場所としか思えなかった。
「沓だけ残して遺骸が無い。」というのは、入水自殺であろう。この織幡神社の先は、直ぐ海である。ここは、現在でも自殺の名所であり、海流が複雑で遺骸が中々発見されない場所だそうでる。
天智天皇は、『日本書紀』に記されたように「壬申の乱」の前に病気で亡くなったのではない。大海人皇子の軍隊に追い詰められて覚悟の入水自殺をした。近江宮(長津宮)のあった中間駅の場所からここ織幡神社まで逃れてきた。
■ 「天智天皇の入水自殺」を『萬葉集』が証言
『萬葉集』 一四八番
一書に曰はく、近江天皇(天智天皇)、聖躰不豫御病急かなる時、太后の奉獻る御歌一首
靑旗の 木旗の上を かよふとは 目にはみれども 直に逢はぬかも
山科の青旗のような木幡(織幡神社)の上を御霊は通っておられると目には見えるけれど、もはや直接には天皇にお逢いできないことである。
(直に逢ふとは、相觸れる肉體のある人間として直接に相見る事である。 澤瀉久孝)
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この歌の題詞には、御病気の時とあり、病気であるならば目の前に居り逢う事が出来るが、歌は直接にはお逢いできないと詠われている。太后の目の前に天智天皇の遺骸が無い。
だから、題詞がおかしい。病気では無く、もう既に天皇の肉体が目の前には無い。魂だけが通っている。織幡神社の風が木々を揺らすその上を御霊が通っていると詠われた悲しい歌である。『萬葉集』の歌の内容は凄い。
歌と題詞を切り離した時に『扶桑略記』の内容と繋がる。また、織幡神社の沓塚の伝承とも繋がる。
『萬葉集』 一五三番
太后の御歌一首
鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて 漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ
(鯨魚取り)淡海の海の遠く沖辺を漕いで来る船よ。沖の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。岸辺の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。(若草の)入水した我が夫のように思われる鳥が、驚いて飛び立つかも知れないから。
(日本古典文学大系の解釈を一部改作)
※
大后=倭姫王。天智七年皇后となる。天智の異母兄、古人大兄皇子の娘。生没年未詳。即位したという説がある。
大海人皇子が、皇太子辞退の時、天智天皇に対してこの皇后に天下のことをまかせるよう申し出たと『日本書紀』にある事を有力な根拠とする。
⇒ 「壬申の乱」は、淡海のある倭国 = 豊国が舞台であった。
『日本書紀』 天智天皇十年冬十月
庚辰に、天皇、疾病弥留し。勅して東宮を喚して、臥內に引入れて、詔して曰はく、「朕、疾甚し、後事を以て汝に屬く」と、云々。
是に、再拜みたてまつりたまひて、疾を稱して固辭びまうして、受けずして
曰したまはく「請ふ、洪業を奉げて、大后に付屬けまつらむ。大友王をして諸
政を奉宣はしめむ。臣は請願ふ、天皇の奉爲に、出家して修道せむ」とまうし
たまふ。天皇許す。 (後略)
『因幡の國 風土記逸文』 武内宿禰
因幡國風土記に云はく、難波の高津の宮の天皇の天の下知らしめしし五十五年春三月、大臣武内宿禰、御歳三百六十餘歳にして當國に下向りまし、龜金に雙履を残して、御陰所を知らず。
蓋し聞く、因幡の國、法美の郡、宇倍山の麓に神の社といふ。これ武内宿禰の靈なり。
昔、武内宿禰、東の夷を平げ、還りて宇倍山に入りし後、終る所を知らずと。
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