「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
「倭国=豊国」説の最新情報(2018年9月21日) 福永晋三
万葉集の探究を志し、記紀を一から読解し直さなければならぬと考え、筑豊を中心に各地を二十年余り探訪してきた。
昨年七月に豊前川崎に研究室を設け、多くの驚嘆すべき 情報が入りつつある。今回はそのうちの二題を提供したい。
(その一つです。)
おのころ島の発見
今年、八月五日に嘉麻市のnicoで「遠賀川流域の神武天皇―嘉穂郡誌・鞍手郡誌を読む」を講演した。
「おのころ島はどこか?」との問いがあり、「古遠賀湾のどこかだろう」と答えた。講演が終わった後に、門司のバナナマンさんから、「水巻町の多賀山(写真の真ん中の山)ではありませんか」と教えられた。
翌々日、現地を訪ねた。あれほど恋い焦がれた「おのころ島」に終に巡り会えた。
是に天つ神、諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、「この多陀用弊流国を修理め固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。
故、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩許々袁々呂々に画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の末より垂り落つる塩、累なり
積もりて島と成りき。これ於能碁呂島なり。
その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。
古事記のほとんど冒頭部の一節である。水巻町の多賀山は古事記の描写にピッタリである。先ず、円錐形の小島である。塩がコロコロと矛の末から滴り落ちて「おのずから凝り固まった」島すなわち「おのころ」島の形容にふさわしい。
しかも、多賀山のある地名を「頃末」という。筑豊では早口にいうと「殺せ」と聞こえるので、有名な所である。地元の人々もなぜコロスエというのか分からないと一様に口をそろえる。
しかし、もはや明らかだ。古事記中の「許呂末」から転じて、「頃末」になったのだろう。
多賀山は、頂上にかつて多賀神社が鎮座していたからそう呼ばれる。勿論、伊邪那岐命が祭られていた。この伊邪那岐命は「勇魚(鯨)」に由来する神と言われる。頃末の北には「鯨瀬」という地名まである。
さらに言うなら、「水巻」の語源も「沼矛を指し下ろして画い」たように、伊邪那岐命の降臨時には始終「渦を巻いていた海域」であったことに由来するのではないのだろうか。
日本書紀の神武天皇紀の末尾に次の一節がある。
昔、伊弉諾尊、此の國を目けて曰く、「日本は浦安の國、細戈の千足る國、磯輪上の秀真國。」とのたまひき。
私は、この一節から伊弉諾尊も神武天皇も古遠賀湾沿岸に降臨した神や王であるとの確信を抱き続けてきた。事実上、筑豊は「細型銅剣」の出土する地であり、直方市天神橋貝塚からはマッコウクジラの歯の装飾品が出土している。
古遠賀湾沿岸は「浦安の国」であり、「磯が輪のように広がったその上のすばらしい国」である。
「おのころ島(多賀山)」の南二〇〇㍍の所の遠賀川の水底に「立屋敷遺跡」が眠っている。稲作の始まりの象徴とされる遠賀川式土器の出土した遺跡である。
私は、二十代の後半から三十代前半のころはよく中国大陸を旅行した。長江流域の旅が比較的多い。当時まだ薄暗い上海博物館に入った時、春秋時代の呉越の戦いのころの土器を見た。遠賀川式土器によく似ていた。
遠賀川式土器は春秋時代の呉越からもたらされたのではないかと考えた。そういう思いを三十年以上も温めてきた。それを懐かしく思った時、立屋敷遺跡からは高床式建物の柱痕(写真)が出土していることを思い出した。「八尋殿」ではないか。
つまり、土器も建物も稲も、中国の長江下流域からもたらされた文化ではないか。伊弉諾尊は越人だ。なぜなら、越王勾践に敗れた呉王夫差の庶子が 菊池川流域の山門 に移り住んだとの伝承が「松野連系図」にあるからだ。
春秋時代の呉越の争いが、北部九州で繰り返される。「 神武天皇(菊池出身)は筑豊に東征した 」や「景行天皇は狗奴国の卑弥弓呼であり、邪馬台国の卑弥呼を負かし、日本武尊と戦った」などの新説を次々に発表している。
最近の私の発表には、長い体験が活きている。一朝一夕の思い付きではない。長年の思索と体験の積み重ねの結果、ようやく「おのころ島」に辿り着いた。
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