「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 大分(大分八幡宮)= 神武・東征の地

鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)・射手引神社社伝による神武天皇・東征の地( 東征コース  e:大分)。

 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )より

 大分八幡宮
「写真」
神功皇后征西の軌跡
 364年、ショウケ越えをし、飯塚市大分八幡で新羅遠征の物部軍を解散。
『嘉穂郡誌』長明寺
由 緒
 開基祐西は本願寺第八代蓮如上人弟子なり、明應八年御下賜の御染筆六字尊號あり、又上人の葬儀に参列し分與を受けし上人の御舎利あり。
          (嘉穂郡寺院明細帳)
 長明寺は浦田にあり、遍照山攝取院と號す眞宗西派本山京都本願寺末也。((初めは西京佛照寺に属せしと云ふ) 文明八年丙申祐西と云僧開基す、正徳四年寺號木佛を許さる。
            (筑前續風土記)
長明寺の由來
 抑筑之前州穂波郡土師村遍照山長明寺開基祐西は、地神第一天照大神宮第二の皇子天穂日命の苗裔也、此天穂日命は神勅により出雲の國司となり下り給ひ、子々孫々當國の司たり、十四世の孫野見宿禰まで相續して彼國に居れり、
(中畧)
『嘉穂郡誌』長明寺
 會孫土師の連淸氏は人皇十五代の帝神功皇后に仕へて、三韓征伐の時にも隨ひ奉り、彼地にて數度の軍功ありければ、歸朝の後穂波郡大分村にて諸軍勢を分ち國々に歸し給ふに、淸氏が軍功を賞し給ひ、弟淸友を京都に供奉せしめ給ひ、淸氏には八千町の地を給ひ、此國に居て勞を休んずべしと勅を蒙り、帝に別れ奉り、後穂波郡を彼方此方と居住の地を撰り、此里勝れて氣に恊ひ、面白きとて居室を構へ、妻子を呼迎えて武威日々に榮へ、仁徳夜々に濕ひければ、里人恭ひ尊ひ土師殿と稱し、後は土師の連と云ふを以て土師村を里の名とし、懐きかしつきれば、淸氏も悅び土師の姓則ち里を保つしるしなればとて、氏を保里と定め、保里の連土師淸氏とぞ名乗けり。
(中略)

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