「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より
香月文書によると畑城主香月氏の神話伝説に次のようにある。
小狹田彦の孫小磐削ノ御剣王は日本武尊と小狹田彦の娘常磐津姫の間に生まれた人である。父君の日本武尊に
従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。その賞として祖父景行天皇より武部ノ臣の称を頂いたほどで
ある。
御剣王は帰国後『兎角に父の尊の慕わしくて、尺の岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を祭り玉ひ
云々』とある。」
「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀ノ王を嘉麻の碓井の
邑主となし、御子天賀那川彦ノ王を新北の神主となし、御子津々賀御ノ王を舞岳(尺岳)日本武尊小狹田彦御剣王
合祀の神主となし、御子御木ノ王を穂波の郡司となし、御子山戸部ノ王を聞(企救)の司となし、御弟羽羽戸部ノ
王を高羽(田川)の主とし、御弟八ッ大戸部の王を暗崎(黒崎)の村主となし玉ふ』云々とある。」
上は神武のかなり後の日本武尊の伝承である。
これも記紀の伝承とは相容れないが、「香月文書」に関わる「香月氏」は、神功紀に出て来る「葛城襲津彦」の
末裔である。
神武紀の「葛城」、神功紀の「葛城襲津彦」、中世の畑城主「香月氏」が時代を貫いて同じ地に現れる時、神武
紀の「葛城」もあるいは今日の鞍手町「香月」とその周辺ではないかと思われる。