「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
万葉集29、30、31番「近江の荒都に過りし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌」
柿本朝臣人麻呂が、忍熊王の拠った百磯城の大宮処の跡(御所ヶ谷神籠石)を実際に訪れ、その荒廃を嘆き、併せて忍熊王の悲劇的な最期を傷んだ歌。
<『 宇治の京 』3ページより引用>
*.青丹吉 平山越而( 奈良山 越えて)
*.「そらにみつ 大和を置きて ・・・」→ 天満倭 (そらみつやまと)国 = 倭奴国
したがって、漢委奴國王印 → 倭奴と読み →「かんのいぬこくおういん」
神功皇后紀を歴史事実と認めるなら、『万葉集』30番、31番の「大宮人」、「昔の人」は神功皇后の軍に追い詰められ、「淡海」(古遠賀湾、飯塚市の 勢田 )に入水した「忍熊王」その人である。