「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
「天満倭」考―「やまと」の源流
この宮は、次項と併せて考えると、景行紀十二年九月条の次の宮でもあるようだ。「豊前国の長峡(ながを)県
に到りて、行宮を興てて居します。故、其の処を号けて京(みやこ)と曰ふ」。
現在の京都郡である。長峡川もありその河口がもっと内陸部に入ったあたりである。行宮を京とは呼ばない。
先の「淡海」(大芝英雄の云う豊前の難波)の条件にも当てはまる。
筆者はここを豊前の平城京と考えている。
天の下知らしめしけむ 天皇の神の御言の
― この天皇は神武から数えて十二代の景行天皇と考えられる。秋津洲倭からさらに東に遷都した天皇であるようだ。
人麻呂が詠った時点では神である。
景行・成務・仲哀と続き、忍熊王の時、神功軍に滅ぼされた。「御言」は通例「命」と書き換える。原表記を
重視して、「御言」のまま考えると、例えば、旧事本紀の「皇孫本紀にある」の意と解することができるのでは
ないか。前項と緊密に繋がっていよう。
大宮は此処と聞けども 大殿は此処と言へども
― 互文法と呼ばれる表現を用いた対句である。大宮殿はここと言い聞くけれども。
霞立ち春日か霧れる 夏草か繁くなりぬる
― 原表現とすれば、唐詩にも見られる「景を詠うに全力を尽くし、情を言外に漂わせる手法」(松浦友久
『唐詩』教養文庫)に通じるものを感じ取る。
実は、哀しみの涙にかすむのを言う。「国破れて山河在り 城春にして草木深し」(杜甫)より早い時代の、
深い哀情を湛えた、優れた表現の叙景歌であろう。
長歌は、徹底して豊前淡海の国都の荒廃を嘆いた。
この長歌の新解釈を通して、筆者は、「磯城洲の倭」=「しきしまのやまと」の成立をこの廃墟に見ている。
倭国(現在の福岡県・佐賀県)には、御所ヶ谷・鹿毛馬・高良大社・女山・おつぼ山等、神籠石の遺跡が集中する。
それらが磯城であるなら、最大級の御所ヶ谷神籠石こそ「百磯城の大宮処」と言えよう。これらは、四世紀後半
ことごとく神功皇后に滅ぼされたのである。
人麻呂の長歌には、天満倭・秋津洲倭・磯城洲倭の三朝の衰退もしくは滅亡が詠み込まれていたのである。